落語家の立川談志さんとは、「オイ!」「オマエ」と呼び合うほど、気のおけない仲だったという、毒蝮三太夫(どくまむし さんだゆう)さんですが、そんな談志さんも、2011年、他界されます。
「毒蝮三太夫は立川談志を駅のホームから突き落とそうとしていた?」からの続き
立川談志と最後に会ったのは死去する約半年前
立川談志さんは、2011年11月21日、75歳で、咽頭ガンのために他界されているのですが、毒蝮さんが最後に談志さんと会ったのは、その半年前の6月5日、談志さんのお母さんが入院している施設だったそうです。
その時、談志さんは、すでに闘病中で車いすだったそうで、
毒蝮さんが、
おう、久しぶりだな
と、声をかけると、
おう、おう
と、答えたそうですが、
表情はなく、状態はかなり悪そうで、
毒蝮さんは、そんな談志さんを見て、
ダメだな、これからよくなる可能性は薄いな
と、思ったそうです。
いつ訃報が来るかと怖かった
その後も、奥さんからは、談志さんの体調が悪いことを聞いていたそうで、いつ(亡くなったという)電話がかかってくるか、恐ろしかったそうですが、
それに加えて、周囲から談志さんの具合を聞かれ、本当のことを言えなかったことも辛かったそうで、
毒蝮さんは、
誰にも言わなかった。で、「談志師匠はどうですか?」って聞かれるから、「元気だよ」って言うしかなかったね。でも、辛かったですよ。元気じゃないんだもん。
お母さんはいまでも存命なんですよ。お母さんは、まだ元気でいらっしゃるんだけども。逆縁になっちゃった。いま考えれば、1日も長生きしてもらいたかったけど。あの病だったら、ガンもあったしね。
それから、食えないから衰弱もしてたし。で、声が出ない落語家っていうのは、それは死んだと同じですよ。
と、明かしています。
立川談志の訃報を受けた時にはすでに荼毘に付されていた
そして、ついに、2011年11月23日午後2時頃、談志さんの死を知らされたそうですが、談志さんはすでに荼毘(だび)に付されていたそうで、
毒蝮さんは、密葬にも参列できず、最後のお別れもできなまま、永遠の別れとなってしまったのだそうです。
(これは、談志さんがどんどん衰弱していく様子を見せたくないという家族の配慮によるものだったそうで、談志さんの家族と談志さんの世話をしていた立川談吉さんを除き、その死は談志さんの他の弟子たちにさえ伝えられず、家族および談吉さんのみで通夜と密葬を行い、11月23日に荼毘に付されたそうで、談志さんの死から2日間、その死は誰にも伝えられずにいたのだそうです)
「深友」立川談志への想い
ちなみに、毒蝮さんは、スポーツ報知の取材に対し、
天才と称されて、彼は演じてた部分があったと思う。闘病で奥さんたちに本当の自分を見せれたんじゃない? 75歳にして、1番楽になったんじゃないかな
と、親友ならではの視点で談志さんを思いやり、
親友ならぬ“深友”と言ってくれていた。自分のプロデューサーのようなもの
アイツがいなかったら、今のオレはなかったわけだからね。自分のプロデューサーみたいなもんですよ。アイツも「オマエはオレの最高傑作だ」って言ってたけどね
「オマエは俳優よりも話をする方が向いてる」と7、8年かかって説得された。「毒蝮」って名前も、最初は恥ずかしくて女房や母にも言えなかった。でも、アイツは分かっていたんだな。オレが俳優としてはダメだってことを
と、語っています。
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