プロ野球引退後は、野球解説者として人気を博し、やがてはタレントとして大成功を収めた、板東英二(ばんどう えいじ)さんですが、実は、プロ野球入りしてすぐに、副業を始めていたといいます。
「板東英二は上岡龍太郎からの助言を仕事の基本としていた!」からの続き
プロ入り後数ヶ月で父親に契約金を全額株ですられていた
板東さんは、徳島商業高校時代の活躍により、プロ野球の中日ドラゴンズに、契約金2000万円(現在の貨幣価値に換算すると数億円)で入団すると、貧しい家計を支えるためにプロ入りしていたことから、このお金をすべて両親に渡していたそうですが、
何ヶ月かして家に帰ると、なんと、お父さんが株で全部スッてしまっていたそうで、その時は、あまりのことに、あきれ果て、怒る気にもなれなかったそうですが、
やがて、逆に、
株で負けた分は株で取り返したる!
と、決意し、
その翌日には、「会社四季報」を購入して読みあさるほか、練習の間に短波(たんぱ)放送を聞いて株の勉強をしたそうです。
プロ野球選手でありながら副業を始めた理由とは?
また、板東さんは、株のほかにも、様々な副業に勤しんだそうですが、実は、中日ドラゴンズに入団した直後の19歳の時、オープン戦の打席で、南海ホークスの杉浦投手のボールを見て、
プロはこんな凄い球を投げるのか、自分は絶対に活躍できない
化けモンみたいな選手がゴロゴロいるこの世界で、自分が一生野球を続けていけるわけがない。本業以外でしっかりした収入を確保できる別の仕事を見つけなければ、すぐに金に困る生活になる
と、悟ったそうで、
まずは、兵庫県芦屋市で老夫婦が経営していた牛乳配達店の権利を270万円で買い取り、選手のかたわら、経営者としても活動を始めたそうです。
(実際の日々の仕事はお兄さんに任せたそうです)
ジュークボックスの訪問販売もしていた
そして、1年後には、「タイトー」の名古屋支店長と知り合った縁から、「タイトー」が扱っていた外国製の中古のジュークボックスの訪問営業も始めたそうで、
和歌山県・南紀白浜などの温泉街にある旅館や喫茶店へ出向き、自ら売り込んだそうです。
(このジュークボックスの販売は、自身の予想を上回る利益を得たそうですが、メンテナンスを巡り、売り込み先から苦情が殺到したことから、早々に手を引いたそうです)
自ら歌った「燃えよドラゴンズ!」は40万枚の売上を記録
その後、1966年、26歳の時には、名古屋市内(大阪という説も)に4階建てのビルを買って、この中にサウナ、ナイトクラブ、雀荘、割烹店を次々とオープンさせると、
プロ野球引退後の1974年には、「燃えよドラゴンズ!」(中日の応援歌)を自分で歌ってレコード化するほか、中日ドラゴンズと交渉し、野球帽、マスコット人形、ユニフォーム型パジャマの販売も手がけ、
1990年代からは、食材の通販事業を始めるなど、様々な事業を手掛けたのだそうです。
「燃えよドラゴンズ!」。なんと40万枚も売り上げたそうです。
バブル崩壊による株価暴落で17億円の借金を背負っていた
ただ、「燃えよドラゴンズ!」を除き、軌道に乗った事業はほとんどなかったほか、板東さんが最も力を入れていた株式投資では、値上がりすると思えば、どんな株でも次々と買っていたそうですが、
1990年代にバブルが崩壊して株価が暴落すると、板東さんが持っていた株は紙切れ同然になり、借金が17億円にまで膨れ上がったそうで、その後、俳優業や執筆業などで稼いだお金で、10年がかりで返済したのだそうです。