「戦場のメリークリスマス」の出演オファーをするため、直接、ニューヨークまで英国のロック歌手・デヴィッド・ボウイさんに会いに行き、ボウイさんから出演を快諾された、大島渚(おおしま なぎさ)さんは、その直後には、以前から大島さんのファンだったという、イギリスのプロデューサーのジェレミー・トーマスさんから、是非、自分にと名乗り出られたといいます。
「大島渚は「戦メリ」でデヴィッド・ボウイからアドバイスされていた!」からの続き
英プロデューサーのジェレミー・トーマスが名乗り出る
主人公のジャック・セリアズ陸軍少佐役が決まらず、なかなか進行しなかった「戦場のメリークリスマス」ですが、デヴィッド・ボウイさんがセリアズ陸軍少佐役に決まると、
今度は、大島さんのファンだったという、イギリスのプロデューサーのジェレミー・トーマスさんが、「戦場のメリークリスマス」のプロデュースをしたいと名乗り出たといいます。
英プロデューサーのジェレミー・トーマスは大島渚のファンだった
映画配給会社「ヘラルド・エース」を設立したプロデューサーの原正人さんによると、「ヘラルド・エース」は、単館ロードショー第1作目として、「シネマスクエアとうきゅう」で、映画「ジェラシー(原題「Bad Timing」)」(1979)を公開したそうですが、
その映画のプロデューサーのジェレミー・トーマスさんが大島さんのファンで、カンヌ国際映画祭では、大島さんからサインをもらっていたということを、ロンドン駐在スタッフの吉崎道代さんより聞いたそうで、
さっそくジェレミーさんにコンタクトを取り、「戦場のメリークリスマス」の企画について話をすると、ジェレミーさんはすぐにこの企画に興味を示し、自分がプロデューサーをやると言ってきたのだそうです。
(大島さんは、1978年、「愛の亡霊」で「カンヌ国際映画祭監督賞」を受賞しているのですが、この時、「審査員特別賞」を受賞したのが、ジェレミーさんがプロデュースした映画「ザ・シャウト さまよえる幻響」(イエジー・スコリモフスキ監督)だったそうで、2人は、授賞式、パーティともに、隣同士で座っていたそうです)
ジェレミー・トーマスに「戦場のメリークリスマス」のプロデュースを託す
こうして、1981年1月、大島さんは、フランスの「アボリアッツ国際ファンタスティック映画祭」へ審査員として参加した帰りに、パリでジェレミーさんと面会すると、
(ジェレミーさんは、まだ、30代前半という若さだったのですが)大島さんはジェレミーさんを気に入り、ジェレミーさんに、「戦場のメリークリスマス」の企画を託すことを決意したそうで、
(ジェレミーさんがプロデュースした「ジェラシー(原題「Bad Timing」)」は、ニコラス・ローグさんが監督を務めているのですが、その、ローグさんの前作は、デヴィッド・ボウイさんが主演を務めた映画「地球に落ちて来た男」だったそうで、大島さんのファンだったジェレミーさんにとって、ボウイさんが主演する大島さんの新作「戦場のメリークリスマス」は、とても魅力あふれるものだったそうです)
原正人さんは、この時のことを、
収容所を舞台にした映画では資金が集まりません。そのときに、彼(大島監督)は自分の力でデヴィッド・ボウイを“落とした”のです。
企画には必ずそれを前に進めるためのフック、きっかけがありますが、ボウイの参加はその意味で大きなフックになったといえます。
ラッキーなタイミングとはつながるもので、ちょうどヘラルド・エースの単館ロードショー第1作目として、シネマスクエアとうきゅうで公開した作品『ジェラシー』(原題は「Bad Timing」ですが(笑))という作品がありました。
そのプロデューサー、ジェレミー・トーマスはまだ当時30代でしたが、彼は大島監督の大ファンで、カンヌ映画祭で大島さんからサインをもらっていたということが、当時うちのスタッフでロンドンに駐在していた吉崎道代さんからの情報でわかった。
そこで彼に大島さんの企画について話したところ、自分がプロデューサーをやると言ってきたのです。彼の参加により、企画は大きく動き出しました
と、語っています。
(ジェレミーさんは、後に、「ラスト・エンペラー」「シェルタリング・スカイ」「裸のランチ」「リトル・ブッダ」「魅せられて」などもプロデュースしています)
「大島渚は「戦場のメリークリスマス」の為に全財産をはたき借金していた!」に続く