1957年、「日本の喜劇王」と称された榎本健一さんの「榎本健一演劇研究所」に入所し、演技の基礎を徹底的に学んだという、財津一郎(ざいつ いちろう)さんは、卒業してから約10年後、榎本さん演出の舞台に出演すると、強烈な形で薫陶(くんとう)を受けたそうですが、以来、あらゆる仕事でその教えを守っているといいます。
「財津一郎は昔「榎本健一映画研究所」で演技の基礎を学んでいた!」からの続き
榎本健一から強烈な形で薫陶を受けていた
財津さんは、「榎本健一演劇研究所」を卒業して約10年後の1969年12月、榎本さんが演出した帝国劇場の舞台「最後の伝令」に出演しているのですが、この時、榎本さんに、強烈な形で薫陶を受けたといいます。
(この「最後の伝令」は、劇作家・菊田一夫さんの舞台「浅草交響楽団」の劇中劇で、アメリカの南北戦争を背景に、笑いが随所に散りばめられたコメディで、主演の森繁久彌さんのほか、高島忠夫さん、島田正吾さんらが出演しており、財津さんは、かつて、榎本さんが演じた二等兵・トム役を演じたそうです)
榎本健一は台湾に巡業に出かけたままなかなか帰って来なかった
実は、榎本さんは、早い段階で、この舞台「最後の伝令」の演出をすることが決まっていたそうですが、台湾への巡業で、奥さんとともに台湾に出かけたまま、いつまで経っても帰ってこなかったそうで、
(財津さんは、後に、この時、榎本さんが仕事上のトラブルに巻き込まれていたことを知ったそうです)
初演が迫る中、財津さんたちは、帝国劇場の9階の大広間で、通し稽古に励んでいたそうですが、そんな中、「エノケンさんがお帰りになりました」という声が聞こえてきたそうです。
榎本健一から大声でダメ出しされる
すると、奥さんに車椅子を押された榎本さんが現れ、稽古場の入り口に立って、鋭い眼差しで稽古の様子を見ていたそうですが、
(榎本さんは、病気のため、右足を切断しており、義足をつけていたそうです)
恋人のもとに帰ってきたトム役の財津さんが、銃撃を受けて死ぬシーンになると、
だめだ、そんなんじゃ!俺が見せるから見てろ
と、大広間に響き渡るくらいの大声で怒鳴ったのだそうです。
榎本健一の鬼気迫る演技に圧倒される
そして、松葉杖を鉄砲にして天に向けて振りかざしながら、
俺は最後の伝令として死んでいくのだ!
と、叫び、そのまま正面から、硬い床に倒れたそうですが、義足がずれて起き上がれなくなってしまったそうで、
心配した奥さんが慌てて近づき、抱き起こそうとするも、
触るな!
と、もの凄い剣幕で怒鳴ったそうで、財津さんたちは、その気迫に圧倒され、近づくことさえできなかったのだそうです。
榎本健一には悲劇のつもりで喜劇をやれと教えられる
その後、榎本さんは、なんとか体を反転させ、仰向けになったそうで、その瞬間、財津さんと目が合ったそうですが・・・
その目には涙があふれていたそうで、
これくらいの気持ちでやらなきゃダメなんだ。悲劇をやれ。悲劇を。喜劇をやると思うな。大悲劇として演じなけりゃ、お客の目や耳に届いても心に届かねえよ
と、叫んだのだそうです。
榎本健一への想い
その後まもなく、榎本さんは、容態が悪化し、1970年の元日に都内の病院に緊急入院すると、同年1月7日、舞台を観ることなく、他界されたそうですが、
財津さんは、著書「聞いてチョウダイ 根アカ人生」で、
それは、喜劇役者人生をかけた魂の叫びのようでした。
お笑いではない。喜劇こそ感動がなくてはいけない。エノケンさんの言葉は、私の心にしっかりと刻まれました。これはエノケンさんが私に残してくれた最後の言葉でした。
エノケンさんの魂が込められた舞台は、大爆笑の連続。観客たちが泣きながら笑っている姿が見えました。緞帳(どんちょう)が下りても、いつまでもいつまでも、拍手が鳴り止みません。
「すごい。あ~、エノケン先生に見せたかった」
舞台の上で万感の思いがこみ上げてきました。
私は、テレビドラマやミュージカル、舞台、映画と幅広い仕事に取り組んできました。
どんな仕事をするときも、エノケンさんの「観客の心に感動を届ける」という教えを軸に置いています。
それがエノケンさんの薫陶(くんとう)を受けた最後の弟子としてのプライドです。これがなければ、ここまで長い間、厳しい芸能界で生き抜いてこれなかったと思います。
と、綴っています。
「財津一郎は「榎本健一映画演劇研究所」卒業後は職安に通う日々だった!」に続く