大学4年生の時、マスコミ関係の会社の就職試験を片っ端に受験するも、ことごとく不合格だったという、田原総一朗(たはら そういちろう)さんは、11社目となる「岩波映画製作所」の最終面接では、投げやりだったこともあり、会社に昼食を要求するも、受け入れられ、しかも、見事、合格したといいます。
「田原総一朗はマスコミ関係の就職試験でことごとく不合格だった!」からの続き
「岩波映画製作所」を投げやりで受験
ジャーナリストになるべく、大学4年生の時、とにかく、手当たり次第に、マスコミ関係の会社の就職試験を受けるも(全10社)、ことごとく不合格だったという田原さんは、
次に、「岩波映画製作所」の試験を受けたそうですが、すでに11社目だったことから、「もう、どうにでもなれ」という感じで、投げやりになっていたそうです。
(卒論の執筆のため、本屋に「森鴎外全集」を買いに行った際、売っておらず、岩波書店の本社までわざわざ買いに行ったことがあったそうですが、これをきっかけに、「岩波映画製作所」を受験することにしたそうで、「岩波映画製作所」は、それまで、岩波書店の映画部にすぎなかったそうですが、田原さんが受験した時、会社組織「岩波映画製作所」として独立し、最初の入社試験だったそうです)
「岩波映画製作所」の映画を徹底批判したにもかかわらず一次試験に合格
そんな田原さんは、一次試験では、「岩波映画製作所」の制作した仏像の映画を観て、その批評を書くという試験だったそうですが、観せられた映画を徹底して批判したにもかかわらず、見事合格したそうで、
それから、面接試験が一次、二次とあったそうですが、これらもクリアし、最終の三次面接に進んだそうです。
「岩波映画製作所」の面接では昼食を要求していた(ラーメン事件)
そして、朝9時に始まるはずだった三次面接が、正午を過ぎても、面接の順番が回って来なかったことから、
半分投げやりでの受験だった田原さんは、
昼飯を要求しようじゃないか
と、主張したそうですが、
一人だけ、
やろう
と、言ってくれた人(後に劇作家として一世を風靡した清水邦夫さん)がいたそうで、
田原さんと清水さんが会社に昼食を要求したところ、なんと、会社はラーメンを振る舞ってくれたのだそうです。
(この時のことは、「ラーメン事件」として後々の語り草となっているそうです)
「岩波映画製作所」に合格し入社
そんな田原さんですが、最終面接では、「岩波映画製作所」の役員たちを前に森鷗外論を演説すると、これが役員たちに気に入られ、見事合格したそうで、
1960年4月、26歳の時、「岩波映画製作所」に入社したのだそうです。
(清水邦夫さんも合格し、花の同期となったそうです)
「田原総一朗は「岩波映画製作所」で撮影助手として働くも失敗の連続だった!」に続く