指揮をとる西鉄ライオンズが、1968年、1969年と、2年連続5位に低迷したことで、1969年11月、チーム成績不振の責任を取り、兼任監督辞任と同時に現役引退をした、中西太(なかにし ふとし)さんは、その後、様々なチームで打撃コーチや監督を務めているのですが、特に、打撃コーチとして才能を発揮し、数多くの選手を名選手に育て上げています。
「中西太の現役(プロ野球選手)時代の成績が凄すぎる!」からの続き
現役引退後は7球団で監督やコーチを歴任
1969年に兼任監督辞任と現役引退を同時にした中西さんは、翌1970年、1年だけTBSの解説を務めた後、
- ヤクルト(1971~1973年 ヘッドコーチ、1983~1984年 一軍ヘッド兼打撃コーチ)
- 日本ハム(1974~1975年 監督)
- 阪神(1979~1980年 一軍打撃コーチ、1980~1981年 監督)
- 近鉄(1985~1988年 一軍打撃コーチ、 1989~1990年 ヘッドコーチ)
- 巨人(1992年 一軍打撃総合コーチ)
- ロッテ(1994年 ヘッドコーチ)
- オリックス(1995~1997年 ヘッドコーチ)
と、7球団に渡って、監督とコーチを歴任しており、
38歳でヤクルトのコーチになって、弱いところから3年ずつ回ろうと思った。西鉄の最後に(“黒い霧事件”で)お騒がせしたから、お詫びじゃよ。ワシは四国だから、お遍路の旅じゃな。いつの間にか8球団も数えてた
と、語っているのですが、
選手の長所を伸ばす指導法に定評があり、特に、打撃コーチとして、抜群の手腕を発揮し、数々の名選手を世に送り出しています。
プロ入りを拒否する若松勉の素質を見抜き説得してヤクルトに入団させていた
まずは、若松勉さん。
若松さんは、通算19年で、打率3割1分9厘(2度の首位打者)、2173安打、220本塁打と素晴らしい成績を残しているのですが、
実は、1970年、ドラフト3位でヤクルトに指名されるも、身長が公称168センチ(本当は166センチ)と小柄だったせいで自信がなく、ましてやプロになりたいと思ったことがなかったことから、当初は、プロ入りを拒否していたといいます。
そんな中、ヤクルトのヘッドコーチ権打撃コーチだった中西さんが、若松さんの素質を見抜き、若松さんの故郷である北海道・札幌市まで出向いて、
体が小さくても下半身を鍛えれば大丈夫
と、説得したそうで、
若松さんにプロ入りを決意させたのだそうです。
若松勉にマンツーマン指導していた
そして、若松さん入団後、中西さんが、鹿児島キャンプで、畳の上で素振りを繰り返す特訓(中西道場)を行うほか、マンツーマン指導をすると、
若松さんは、1年目から112試合に出場して3割3厘という成績を残し、2年目には3割2分9厘で首位打者を獲得。その後も、19年の現役生活で15回もの3割を記録して、「小さな大打者」と称され、2009年には野球殿堂入りを果たしているのですが、
中西さんは、
自分の殿堂入りよりもうれしい、自分に若松を託したお父さんからもお褒めの言葉を授かり、非常に嬉しかった
と、語っています。
若松勉は畳の上の素振りで足の皮もボロボロにむけていた
ちなみに、若松さんは、鹿児島キャンプでの畳の上で素振りを繰り返す特訓(中西道場)では、手のひらや足の皮がボロボロにむけたそうで、
やけどしたようになったけど、負けたくないから休まなかった。最後まで残ったのはオレと内田(順三)だけだった
と、語っているのですが、
血のにじむ努力の末、下半身が鍛えられ、「足の裏で地面をつかむ」という独特の感覚を持てるようになったのだそうです。
そんな若松さんは、それに加え、左手の人さし指でバットを自在に操る卓越したスイング技術を融合させているのですが、その左方向への強い打球は、体格のハンディを感じさせないほどで、
若松さんは、
調子がいいときは体が(ボールの軌道に)入っていけた
と、語っています。
「中西太は八重樫幸雄のオープンスタンスを発案していた!」に続く
若松勉さん(右)を指導する中西さん(左)。