1985年、再び、阪神タイガースの監督に就任した、吉田義男(よしだ よしお)さんは、解雇寸前だったという、ランディ・バース選手を残留させ、3番ファーストで起用しているのですが、同年1985年4月17日には、甲子園の巨人戦で、バース選手、掛布雅之選手、岡田彰布選手が3者連続でバックスクリーンにホームランを放ち、鳥肌が立ったといいます。
「吉田義男は解雇寸前だったランディ・バースを残留させていた!」からの続き
巨人に2対1でリードされていた
1985年4月17日、甲子園に巨人を迎えた3連戦の第2戦、阪神は1回表から、1番の松本匡史選手、2番の篠塚利夫選手に連打を浴びると、松本選手の盗塁は刺すも、3番のクロマティ選手に右翼席へ2ランホームランを打たれ、2点を先制されます。
すると、阪神も、1回裏、二死から3番のバース選手、4番の掛布選手が連続四球を選んだ後、続く5番の岡田選手のタイムリーヒットを打ち、1点を返すのですが、その後は、巨人の槙原寛己投手に抑え込まれていたそうです。
ランディ・バースがバックスクリーンへ1号となる逆転3ランホームランを放っていた
そんな中、阪神の先発の工藤一彦投手も好投を続けていたのですが、7回表、原辰徳選手に三塁打を打たれると、中畑清選手の犠牲フライで1点を追加され、3対1とリードを広げられます。
しかし、阪神は、7回裏、先頭打者の8番の木戸克彦選手が中前打で出塁すると、代走の北村照文選手が盗塁に成功するも、代打の長崎啓二選手は凡退。その後、打順は1番に戻り、真弓明信選手が四球、2番の弘田澄男選手はレフトフライに倒れて、二死一、二塁という場面、3番のランディ・バース選手が、槙原寛己投手の初球、甘く入ったシュート回転したストレートをバックスクリーンへ逆転3ランホームラン(第1号)を放ったのでした。
(バース選手はそれまで15打数2安打6三振、本塁打ゼロという成績でした)
続く掛布雅之と岡田彰布もバックスクリーンへ連続ホームラン
すると、4番の掛布雅之選手も、カウント1ボール1ストライクから真ん中高めのストレートをバックスクリーン左のスタンドに連続ホームラン。
さらには、5番の岡田彰布選手も、2球目の外角スライダーをバックスクリーンにホームランしたのだそうです。
(この後、巨人には、原辰徳選手とクロマティ選手にもバックスクリーンに2連続ホームランを打たれ、追い上げられるのですが、最終的には、阪神が6対5で巨人を下しています)
「甲子園バックスクリーン3連発」は伝説になっていた
ちなみに、バース選手、掛布選手、岡田選手のクリーンナップが3者連続で甲子園球場のバックスクリーン方向へ本塁打を叩き込んだこの出来事は、「甲子園バックスクリーン3連発」(「伝説の3連発」)と呼ばれ、今でもファンの間で伝説として語り継がれているのですが、
吉田さんは、著書「阪神タイガース」で、
想像もしていなかった3連発。それもすべてバックスクリーン。鳥肌が立った。身震いが出た。長い間野球をやっていた私も、こんなことは初めてだ。しかもそれが、シーズン初めの巨人戦で達成されたことに大きな意味がある。
と、綴っています。
その後、ランディ・バースは三冠王を獲得する活躍で阪神のリーグ優勝と日本一に大きく貢献
さておき、この「伝説の3連発」をきっかけに、バース選手は打ちまくったそうで、最終的には、打率3割5分、54本塁打、134打点と、三冠王を獲得する活躍で、この年(1985年)のMVPに輝き、21年ぶりとなるチームのリーグ優勝に大きく貢献すると、
西武ライオンズとの日本シリーズでも、第1戦、第2戦、第3戦と、3試合連続本塁打(第1戦と第2戦ではいずれも決勝本塁打)を放って、阪神を日本一に導き、シリーズMVPを獲得したのでした。
また、バース選手は、1986年にも、日本記録となる打率3割8分9厘、47本塁打、109打点で、2年連続の三冠王に輝くほか、日本での6シーズンで、通算、打率3割3分7厘、202本塁打、486打点という、凄まじい記録を残しています。
ランディ・バースからは優勝するためのアドバイスももらっていた
ちなみに、吉田さんは、広島、巨人との三つ巴(みつどもえ)での優勝争いの真っ只中だった8月の横浜遠征中、ゲイル投手を交えて食事をしていた際、
バース選手から、
優勝するときに大切なのは、まず、監督がパニックにならないことだ
と、優勝するためのアドバイスももらっていたそうで、
吉田さんは、著書「阪神タイガース」で、
バースは観察力の非常に鋭い選手で、ベンチからいつも熱心に相手投手のピッチングを分析していた。仲のいい川藤幸三と将棋を指すのも大好きで、監督の戦略・戦術についても冷静に見ていたのだろう。
と、綴っています。
「吉田義男は1985年に阪神を21年ぶりのリーグ優勝に導いていた!」に続く