1987年は、開幕直後から黒星地獄に陥る中、代打の采配に納得いかない竹之内雅史コーチに職場放棄されると、マスコミからは逆に責めたてられ、夏過ぎ頃からは、阪神球団からもマスコミを使って退陣を迫る動きを見せられたという、吉田義男(よしだ よしお)さんは、ついに、結果を出せぬまま、10月中旬、監督を解任されたといいます。
「吉田義男が竹之内コーチに造反されたのは阪神球団の差し金だった?」からの続き
マスコミに激昂し「お前ら」と言うと言葉尻を取られて報道されていた
並木輝男コーチが打線の不振を嘆き、「もう辞めたくなるよ」と愚痴をこぼしたのを、「並木コーチ、辞任!」と、マスコミに報道された吉田さんは、竹之内雅史コーチの職場放棄問題を巡る「吉田辞任」報道のこともあり、思わず、激昂し、
お前ら、いいかげんなことばかり書くな。並木は、最後まで私と一緒にやる、と言ってるやないか
と、言ったそうですが、
今度は、「お前ら」という言葉尻を取られ、派手に報道されたそうです。
(マスコミは「六甲おろし」ならぬ「監督おろし」の論調だったそうです)
盛永老師の教え「灰頭土面」を思い出し、最後まで辞めないと心に決めていた
そして、1987年9月下旬には、ついに、某通信社が、
吉田監督、シーズン終了後に辞任
と、報道したそうで、
吉田さんは、すでに心身ともに限界で、一刻も早く楽になりたいと思っていたそうですが、山城高校時代の親友で、京都信用金庫理事長だった井上達也さんに、「やり遂げることが大事」と激励されたほか、現役時代、大スランプから救ってくれた盛永老師から教えられたという「灰頭土面(かいとうどめん)」を思い出し、どんなことがあっても絶対に最後まで辞めないと心に決めたのだそうです。
(「灰頭土面」とは、「頭から灰をかぶり、顔が泥まみれになっても、それに耐えてやるべきことをやるのが人としての務めで、逃げれば楽になるだろうが、結果はどうあろうと、最後までやることが仕事をまっとうする」という意味なのだそうです)
阪神の監督を解任される
しかし、1987年のシーズンは、結局、41勝83敗6引き分けと、球団史上最低の勝率3割3分1厘で最下位に沈んでしまったそうで、吉田さんは、10月中旬、甲子園球場内の球団事務所に呼ばれると、社長室で岡崎球団社長から、監督解任を言い渡されたのだそうです。
(吉田さんは、敗軍の将としてその結果を全身で受け止めたのだそうです)
「一蓮托生」を誓った一枝修平コーチらと「天地会」を結成していた
ちなみに、吉田さんは、著書「阪神タイガース」で、
私が座ったソファの上には、わずか2年前、日本一になって胴上げされたときの私の写真がパネルになって飾られていた。
記者会見を終え、帰宅すると、一枝ら数人のコーチが待っていて、拍手で迎えてくれた。最後まで一蓮托生、私に付き合ってくれた彼らと、その夜は遅くまでお互いの労をねぎらい、語り合った。
そのうちに誰かが言った。「それにしても、たった3年の間に、天国と地獄の両方を体験できるなんて、実にいい勉強になりました。そうだ、天国と地獄を略して『天地会』というのを作って、みんなでときどき集まりませんか?」
それはいい、というので、今でも年に一度は集まって懇親会を開いたり、ボランティアで子供たちの野球教室を引き受けたりしている。
と、綴っています。
(阪神球団からは、吉田さんの名誉のために「辞任」ということにしようと言われたそうですが、吉田さんは、球団の意向で辞めるのだからと、その申し出を断り「解任」としたのだそうです)
「吉田義男はフランスの野球チームの監督に就任していた!」に続く