「物干し竿」と呼ばれる通常よりも長いバットを使用してホームランを量産し、大阪(阪神)タイガースの「ダイナマイト打線」の中心メンバーとして活躍した、藤村富美男(ふじむら ふみお)さんは、1950年、もともと1リーグ制だった日本のプロ野球が2リーグと移行する中、タイガースの主力選手たちが新球団・毎日オリオンズに次々と引き抜かれても、たった一人、大阪(阪神)タイガースに残留し、弱体化したチームを支え続けたといいます。
「藤村富美男は「物干し竿」バットでホームランを量産していた!」からの続き
日本プロ野球史上初のサイクル安打を記録するほか安打数と本塁打と打点の日本記録も更新
1948年、96センチ近くもあったという長尺バット「物干し竿」でホームランを量産していた藤村さんは、このシーズン、日本プロ野球史上初の、サイクル安打、100打点、572打数、64長打という記録を次々に打ち立てると、
1949年には、187安打、46本塁打、142打点で、最多安打、本塁打王、打点王に輝き、MVPも獲得しているのですが、
(安打数、本塁打、打点いずれも、当時の日本記録を更新。また、自身の本塁打記録が本塁打王創設後で日本記録になるのは2度目)
このシーズン、阪神は(8チーム中)6位だったそうで、優勝した巨人の選手を差し置いて、下位チームからMVPが出たのは前代未聞のことだったそうです。
長嶋茂雄は藤村富美男に憧れて遊撃手から三塁手に転向していた
そんな藤村さんの人気は凄まじく、甲子園は入場できない人も出るほど大盛況だったそうで、あの長嶋茂雄さんも、中学時代、藤村さんのプレーを見てファンになり、遊撃手から三塁手に転向していたそうで、
藤村さんから長嶋さんへと派手なスターの活躍は受け継がれ、プロ野球は、胡散臭(うさんくさ)い職業野球から、娯楽(エンターテイメント)となって、日本国民の間に定着していったのだそうです。
新球団・毎日オリオンズに主力選手が次々と引き抜かれる中、たった一人だけタイガースに残留していた
ただ、1949年末から1950年初にかけ、もともと1リーグ制だった日本のプロ野球が2リーグに分裂すると、大阪(阪神)タイガースは、選手兼任監督だった若林忠志投手をはじめ、別当薫選手、土井垣武選手、呉昌征選手ら主軸選手が、新球団である毎日オリオンズに引き抜かれたのだそうです。
(戦後の復興と共にプロ野球への関心が高まり、1949年7月に毎日新聞が球界参入を表明したことがきっかけで、2リーグとなったそうです)
そんな中、藤村さんは、
わしゃタイガースの藤村じゃ
と言って、タイガースに残留したそうで、
巨人の川上哲治さんは、そんな藤村さんのことを、
サムライでした。ひとりでがんばっていた。藤村さんも他球団に行っとったら、あのチームはつぶれていたと思う
と、語っています。
打者と投手の二刀流で弱体化した大阪(阪神)タイガースを支えていた
ちなみに、藤村さんは、1950年には、5月25日の広島戦で2度目のサイクル安打を放つほか、セ・リーグ最初の首位打者を獲得、
(この年に記録した年間191安打は、1994年にイチローさんに破られるまで44年間日本プロ野球記録で、2010年にマット・マートンさんに破られるまで60年間阪神の球団記録でした)
1953年には、4月28日、29日に、日本プロ野球史上初の2試合連続満塁本塁打を放つほか、
(2022年時点においても日本プロ野球史上最多タイ記録(他8名))
再び本塁打と打点の二冠王。
そして、1951年までは投手としても登板して、通算76試合34勝11敗、防御率2.34という記録を残し、弱体化した大阪(阪神)タイガースを支えたのでした。
(1953年からは一塁手がメイン)
長尺バット「物干し竿」でスイングする藤村さん。