身長173センチと野球選手としては決して大きくない体ながら、「物干し竿」と呼ばれた94~96センチもある長尺バットでホームランを量産した、「初代ミスタータイガース」こと、藤村富美男(ふじむら ふみお)さんですが、プライベートはどのようなものだったのでしょうか。今回は、そんな藤村さんの家族についてご紹介します。
最初の妻と死別し、再婚していた
藤村さんは、最初の奥さんとは1946年8月に死別したそうで、同年オフ、冨樫興一球団代表の紹介による見合いで再婚すると、11月には松戸市の旅館で披露宴を行ったそうです。
(セントラル・リーグ会長の鈴木龍二さんが仲人を務めたそうです)
子供は娘が1人と息子が2人で長男次男ともに甲子園に出場
藤村さんは、最初の奥さんとの間に女の子が1人、2番目の奥さん(2006年に88歳で他界)との間に、男の子が2人誕生しているそうですが、
長男の哲也さんは、1965年春に育英高校(兵庫)の三塁手として、次男の雅美さんは、1967年春に三田学園(兵庫)の三塁手として、それぞれ甲子園に出場しているそうです。
(長女の方については詳細は不明です)
長男・哲也は本田技研で野球部監督も
哲也さんは、高校卒業後は、法政大学を経て、本田技研に入社すると、三重県・鈴鹿の野球部で監督を10年務めたそうですが、
哲也さんは、偉大なお父さんの名前が常について回ったことで、人前でお父さんの話はしたくないほど、重荷に思えた時期もあったそうです。
家族思いの子煩悩な父親だった
ただ、哲也さんが子供の頃、藤村さんは家族思いの子煩悩なお父さんで(叱られたことはほとんどなかったそうです)、よく、素振りを教えてもらったそうで、
哲也さんは、
剣道ですね。上段からメンを打つのと同じで、スイングはそれが横になっただけだと。両腕が伸びたところでインパクト。そこが一番大事だと
と、語っています。
ちなみに、哲也さんが小学生の頃、お父さんにパチンコ屋に連れて行かれ、哲也さんも玉をはじくと、当たり穴に入っていないのに、どっどっと玉が出たことがあったそうで、哲也さんは、このことについて、藤村さんの息子ということで、ホールの人が裏で操作してくれていたのでは、と考えているそうです。
孫(長男の息子2人)も甲子園に出場していた
また、哲也さんにも、男の子が2人誕生しており、長男の一仁さん、次男の賢さん共に甲子園に出場しているそうですが、
一仁さんは、1996年夏、三重県・海星高校在学中に甲子園に出場すると、代打で決勝のタイムリーを放ったそうですが、試合後のインタビューで、「これもおじいちゃんのおかげですか」と聞かれ、自分の力で打ったのにと、ミスタータイガース(藤村さん)の孫であることがうとましく思い、大会中、お父さんの哲也さんに電話をかけてきて、「お父さん、もう野球やめる」と言ったそうで、哲也さんは、(かつての自分と重ね合わせて)「わが家の宿命。がんばれ」と励ましたそうです。
一方、次男の賢さんは、1998年夏と1999年春、三重県・海星高校在学中、甲子園に出場しているのですが、「藤村」とアナウンスされた際、大きなどよめきが起こると、重圧よりも誇りに思えたそうで、幼い頃に、お父さんの哲也さんと同じようにおじいちゃんの藤村さんから教わった剣道の素振りをして打席に入ると、タイムリーとなったそうで、賢さんは、その時のことを「鳥肌が立った」と語っています。
次男・雅美とその息子(孫)の光司は育英高校の監督と選手として甲子園に出場していた
また、藤村さんの次男の雅美さんと、その息子の光司さんは、2000年、育英高校の監督と選手として甲子園に出場し、「親子鷹」と呼ばれたそうで、他に類を見ない「親子3代の(甲子園)兄弟出場」となり、
春夏合わせて、6回も甲子園に出場したという、藤村さんの甲子園伝説は、子孫の代まで脈々と受け継がれているようです。
(藤村さんの弟で、プロ野球選手の藤村隆男さんも、1939年に春の甲子園に出場しています)
さて、いかがでしたでしょうか。
藤村富美男さんの、
- 年齢は?出身は?身長は?本名は?
- 小学校入学後に野球を始める
- 中学卒業後は就職するつもりも勧誘されて高校に進学していた
- 4番エースで「甲子園の申し子」と呼ばれていた
- 甲子園決勝の熊本工業学校戦では川上哲治を3三振に打ち取っていた
- 甲子園で大車輪の働き
- 藤村富美男が登板する試合では「空箱屋」が大繁盛していた
- 法政大学に進学するつもりも父と兄の強引な勧めで大阪(阪神)タイガースに入団
- 次兄をマネージャーとして就職させるため当時ヤクザ稼業と思われていたプロ球団と契約させられていた
- 1年目の1936年に初代本塁打王に輝く
- 除隊後にプロ野球に復帰するも2割2分と最低な成績だった
- 1944年には打率3割1分5厘で阪神の優勝に貢献
- 再び応召されていた
- 復員後、打者では打率3割2分3厘、投手でも13勝2敗と二刀流の活躍
- 「物干し竿」と呼ばれる長尺バットを使用しホームランを量産していた
- 天性のショーマンシップを発揮し観客を沸かせた
- 日本プロ野球史上初のサイクル安打を記録するほか安打数と本塁打と打点の日本記録も更新
- 長嶋茂雄は藤村富美男に憧れて遊撃手から三塁手に転向していた
- 新球団・毎日オリオンズに主力選手が次々と引き抜かれる中、たった一人だけタイガースに残留していた
- 打者と投手の二刀流で弱体化した大阪(阪神)タイガースを支えていた
- 中日の捕手・河合保彦の捕球を巡り激しく抗議
- 松木謙治郎監督が身代わりとなって退場処分を受けるも・・・
- しれっと打席に入ろうとするも杉村球審から改めて退場を言い渡されていた
- 杉村球審の「風呂に行け」という婉曲的な退場宣告をスルーするも・・・
- 独断で打席に立ったわけではなかった
- 出場停止20日の厳しい処分が下されていた
- 松木謙治郎監督は藤村富美男を思いやって阪神球団と揉め辞任していた
- 松木謙治郎監督に後任監督に推薦されるも野田オーナーの以降で無名の岸一郎が監督に就任
- 新監督・岸一郎はプロ野球の経験がなかった
- 新監督・岸一郎が監督に起用された理由とは?
- 新監督・岸一郎の采配に藤村富美男らベテランは激しく反発していた
- 岸一郎監督辞任後に選手兼任代理監督⇒選手兼任監督に就任
- 「代打ワシ」
- 青木一三スカウトが野田オーナーに若手選手が待遇面で不満を感じていると伝えていた
- 阪神球団は藤村富美男の低い年俸を基準に他の選手の金額を決定していた
- スター性の抜けきらない独善的な采配で選手たちの反感を買っていた
- 金田正泰と真田重蔵ら総勢14名により「監督退陣要求書」を野田誠三オーナーに提出されていた
- 阪神球団は青木一三スカウトを解雇したうえ金田正泰と真田重蔵の来季の契約更改をしないと発表
- 排斥派の選手たちは阪神球団からの契約更改の呼び出しを拒否していた
- 鈴木龍二リーグ会長が巨人の水原茂監督、川上哲治、千葉茂に仲介役を依頼していた
- 川上哲治から金田正泰をチームに戻すように勧められていた
- 「排斥派」の選手たちが「監督退陣要求書」を撤回し監督続投が決定
- 吉田義男のコメント
- 小山正明のコメント
- 監督を解任され現役選手として復帰させられていた
- 吉田義男は自らの不明を責めていた
- プロ野球選手(現役)時代の打者成績
- プロ野球選手(現役)時代の投手成績
- タイトルは首位打者1回、本塁打王3回、打点王5回ほか多数
- サイクル安打2回、2試合連続満塁本塁打ほかNPB記録多数
- 野球殿堂競技者表彰、MVP、ベストナインなど受賞
- 背番号10は阪神タイガースの永久欠番
- 国鉄スワローズで一軍打撃コーチ、東映フライヤーズで一軍打撃コーチと二軍監督
- 時代劇「新・必殺仕置人」にレギュラー出演するなど俳優としても活動
- 阪神タイガースの球団社長付アドバイザーも務めていた
- 後藤次男監督の時には総監督になる予定だった
- 糖尿病による腎不全のため75歳で他界
- 最初の妻と死別し、再婚していた
- 子供は娘が1人と息子が2人で長男次男ともに甲子園に出場
- 長男・哲也は本田技研で野球部監督も
- 家族思いの子煩悩な父親だった
- 孫(長男の息子2人)も甲子園に出場していた
- 次男・雅美とその息子(孫)の光司は育英高校の監督と選手として甲子園に出場していた
について、まとめてみました。
ミスタータイガースと言われながら、口が重く、ドスのきいた声、怒りっぽい性格などから、野球関係者、新聞記者らとうまくいかなかったこともあり、ついには阪神タイガースの監督になれなかった藤村さんですが、この先、もう二度とこのような豪快な選手が現れることはないかもしれません。