1976年は、入団3年目にして、打率3割2分5厘、27本塁打、83打点の大活躍で、ベストナインにも選ばれた、掛布雅之(かけふ まさゆき)さんは、入団4年目の1977年は、打率3割3分1厘(自己最高を更新)、23本塁打、69打点、入団5年目の1978年は、打率3割1分8厘、32本塁打(自己最高を更新)、102打点(自己最高を更新)と素晴らしい成績を残したほか、球宴では、3打席連続本塁打を記録します。

「掛布雅之は入団3年目にして3割2分5厘,27本塁打,83打点の活躍をしていた!」からの続き

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阪神入団4年目の1977年も打率3割3分1厘,23本塁打,69打点の好成績を残していた

1976年は、入団3年目にして、打率3割2分5厘、27本塁打、83打点の大活躍で、ベストナインにも選ばれた掛布さんは、4年目の1977年も、開幕戦のヤクルト戦、1回表2アウト満塁という場面で、カウント2-2から、エース松岡弘投手の投じたストレートを弾丸ライナーでライトスタンド中段に満塁本塁打を放つなど、幸先の良いスタートを切ると、打率3割3分1厘(自己最高を更新)、23本塁打、69打点という素晴らしい成績を残しているのですが、

(前年の、打率3割2分5厘、27本塁打、83打点という成績に追い回され、気持ちが擦り切れそうになりながら頑張ったそうです)

掛布さんは、4番に田淵幸一選手がいたことで、気が楽になり、高打率を残せたのではないかと語っています。

(1977年シーズンは、6番でスタートするも、後に3番を打つことが多かったそうです)

阪神入団5年目の1978年には初めて頭部死球を受け、復帰後は怖くて右足を思い切り踏み込めず打てなくなっていた

そんな掛布さんは、入団5年目の1978年も、開幕から打率3割をキープしていたのですが、5月10日、大洋(現・DeNA)戦で、プロ入り初めて頭部に死球を受け、甲子園球場近くの病院に搬送されると、そのまま入院。

検査の結果は幸い異常はなく、2日後には退院したそうですが・・・

復帰後、掛布さんは、怖くなって右足が思い切り踏み込めず、打てなくなってしまったのだそうです。

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阪神入団5年目の1978年は球宴で3打席連続本塁打のほか打率3割1分8厘、102打点、32本塁打を記録していた

そこで、掛布さんは、甲子園(ホーム)での試合の時は、調子を取り戻すまでは個人練習を続けると決め、全体練習の2時間前には球場に入って打撃マシンに向かい続けたそうで、

(球宴(オールスター)出場を願う多くのファン投票も、大きなプレッシャーになったそうです)

結果、1978年7月25日の球宴(オールスター)では、第3戦(後楽園球場)、全セ・リーグの3番として出場すると、初本塁打を記録するほか、球宴史上初となる3打席連続本塁打の大活躍でMVPを獲得すると、

レギュラーシーズンも、打率3割1分8厘、32本塁打、102打点と素晴らしい成績を残したのでした。

「掛布雅之が頭部死球で打率を落とすと遠井吾郎打撃コーチに批判が殺到していた!」に続く

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