入団13年目の1986年は、度重なるケガで、プロ入り13年間で最少の67試合出場、打率2割5分2厘、9本塁打、45打点という不甲斐ない成績に終わってしまった、掛布雅之(かけふ まさゆき)さんは、翌1987年には、シーズン開幕目前の3月22日深夜、飲酒運転で現行犯逮されて、久万俊二郎オーナーに「欠陥商品」と斬り捨てられているのですが、心身ともにズタズタの中、再び輝きを取り戻すことなく、1988年シーズン途中の9月14日、33歳の若さで現役引退を発表します。
「掛布雅之は1986年の度重なるケガから輝きを失っていった!」からの続き
1988年7月13日には古谷真吾球団代表らと2時間以上に渡る話し合いの末一軍登録を抹消されていた
1985年まで毎年素晴らしい成績を残していた掛布さんですが、1986年シーズン、度重なるケガで不振に陥ると、その影響で1987年も振るわず、
1988年も開幕から不振が続くと、ついに、7月13日には、試合開始前の甲子園球場内ロッカールームで、古谷真吾球団代表、高田順弘本部長、村山実監督と2時間以上話し合った結果、この日の出場を見合わせ、翌14日、「左ひざの治療に専念するため」という理由で一軍登録を抹消(二軍降格)されてしまいます。
(掛布さんは、朝は体の痛みと格闘しながら起き上がり、湯船にゆっくりとつかってから球場に向かうも、体が悲鳴を上げ、試合後は、自宅で電気治療器を患部にあてつつ、7月12日まで先発出場を続けていたのですが、66試合出場で、279打数63安打、打率2割5分3厘、5本塁打、32打点という物足りない成績で、チームに貢献できない日々に、忸怩たる思いだけが募っていたそうです)
妻の言葉で引退を考えるようになっていた
それでも、掛布さんは、その後も、二軍で若手に混じって練習に出ていたそうですが、そんな生活を間近で見ていた妻の安紀子さんに、シーズン中盤にさしかかった頃、「パパ、もう無理しなくていいよ」と言われたそうで、この時、頭に「引退」の二文字が浮かんだそうです。
すると、やがて、
テスト生みたいな選手が曲がりなりにも、阪神の4番を務めた。よくやったじゃないか
と、これまでとは違う感情が生まれてきたそうで、
掛布さんは、その時のことを、
(引退を決意した)自分を納得させようとする弱い自分が出てきた
と、語っています。
33歳の若さで現役を引退
こうして、掛布さんは、1988年シーズン途中の9月14日、
自分なりに結論を出した。悔いはありません
と、33歳の若さで現役引退を表明したのでした。
(掛布さんの成績に比例して、チーム(阪神)も、1986年は3位、1987年と1988年は最下位となっています)
1988年10月10日、引退セレモニーでの掛布さん。
複数の他球団からのオファーも「阪神の4番」にこだわり断っていた
実は、この時、まだ33歳だった掛布さんには、複数の他球団から誘いがあったそうですが、1978年オフに阪神から西武へトレードされた田淵幸一さんに、「お前は、俺のようになっちゃだめだ。縦じまのユニホームを着続けろ」と言われた言葉が忘れられず、自身も、打者としての勲章よりも「阪神の4番」(背番号31)にこだわったそうで、
(通算1656安打だった掛布さんは、もし打順にこだわらなければ選手寿命が伸び、名球会入りの条件となる2000本安打にも届いていただろうと言われています)
掛布さんは、1988年11月18日号の「週刊ポスト」での江夏豊さんとの対談でも、
前にトレード云々みたいなことが新聞紙上に出ましたけど、もしそういうことが実際にあれば、その時でもユニフォームを脱いだんじゃないかな
と、語っています。
1988年10月10日、引退セレモニーで岡田彰布選手から花束を受け取る掛布さん。
33歳の若さで現役引退したことを後悔していないと語っていた
そんな掛布さんは、現役引退から30年以上経った2021年時点でも、33歳の若さで現役引退したことを後悔していないと言い切っているのですが、
掛布さんは、その理由を、
(「掛布 ブレーキ」という見出しがスポーツ紙の1面となった時のことを)打って1面は誰でも取れる。でも、打てなくて1面はなかなか取れないでしょう。その時に思ったんですよ、ようやく4番として認められたんだと
自分でもあんなに早く辞めるなんて、思っていなかった。ただ、グラウンドを去る時は、4番として、その席を空けるべきなんじゃないかと思っていた。それがチームの新陳代謝にもつながるし、僕を育ててくれたファンへの礼儀だと。実に濃密な15年間の現役生活でした
と、語っています。
1988年10月10日、引退試合で胴上げされる掛布さん。