プロ9年目の1977年には、自己最多となる44本塁打を記録するも、王貞治選手に阻まれ、本塁打王になることが出来なかった、山本浩二(やまもと こうじ)さんですが、翌1978年も44本塁打すると、今度は、王選手を抑え、本塁打王に輝きます。
「山本浩二が本塁打を量産できた(本塁打王4回)理由とは?」からの続き
山本浩二は1978年には44本塁打で王貞治を抑え初の本塁打王を獲得していた
プロ入り9年目の1977年には自己最多の44本塁打を記録するも、本塁打王は50本塁打した王貞治選手に及ばず、リーグ2位に終わった山本さんですが、
プロ入り10年目の1978年は、前年と同じく44本塁打すると、自身初、そして球団史上初となる本塁打王に輝きます。
(王選手は1962年から1974年まで13年連続本塁打王に輝くと、1975年はふくらはぎの故障などの影響で33本に終わり、43本を打った田淵幸一選手に本塁打王を奪われるも、1976年は49本、1977年は50本で、再び2年連続で本塁打王に返り咲いており、山本さんはそんな王さんを抑えて本塁打王を獲得したことがとても感慨深かったそうです)
山本浩二は1979年には初の打点王を獲得する活躍で広島カープの2度目のリーグ優勝と初の日本一に大きく貢献していた
ただ、翌1979年は、(元来、中距離バッターのはずが)一発を求められる雰囲気の中、大振りが目立ち、5月まで打率が2割3分台まで低迷するなど大スランプ。
それでも、6月以降は復調すると、最終的には、打率2割9分3厘、42本塁打(リーグ2位)、113打点と、本塁打王は逃したものの、自身初、そして球団史上初となる打点王に輝く活躍で、4年ぶり2度目となる広島カープのリーグ優勝と、球団初となる日本一に大きく貢献したのでした。
(この年(1979年)は阪神の掛布雅之さんが48本で本塁打王を獲得しています)
山本浩二は1979年の球宴(オールスター)ではサヨナラ本塁打を含む2本塁打でMVPに輝いていた
そんな山本さんは、この年(1979年)、7度目(7年連続)の球宴(オールスター・ゲーム)に出場しているのですが、7月24日の第3戦では、5番センターで出場し、2回には、先頭打者で4番の王選手の先制弾に続き、バックスクリーンに2者連続ホームランすると、
(その後、4対3と1点リードで迎えた6回には、王選手が村田辰美投手(近鉄)から右中間へ2本目のソロホームランを放ち、5対3とリードを広げるのですが、8回に1点を追加され、5対4と迫られると、9回表には、新浦寿夫投手(巨人)が柏原純一選手(日本ハム)にソロホームランを打たれ、5対5に追いつかれます)
9回裏には、先頭の王選手が四球で一塁に出た後、フルカウントから柳田豊投手(近鉄)が投じた外角球を右翼スタンドへサヨナラ2点本塁打して(7対5)、全セを勝利へ導き、自身2度目となるオールスターゲームMVPを受賞しています。
山本浩二は広島カープの黄金期に大きく貢献していた
また、この年(1979年)は、レギュラー2年目の高橋慶彦選手が1番に定着し、2番三村敏之選手、3番ジム・ライトル選手、4番山本さん、5番衣笠祥雄選手、6番エイドリアン・ギャレット選手、7番水谷実雄選手という打線だったのですが、全員がホームラン20本以上と、強力打線だったほか、
投手陣も、先発は、北別府学投手(17勝)を中心に、池谷公二郎投手(12勝)、山根和夫投手(8勝)、福士敬章投手(7勝)、中継ぎは、大野豊投手、渡辺秀武投手、抑えは江夏豊投手と揃い、投打ともに戦力が充実しており、山本さんは広島カープの黄金期に大きく貢献したのでした。
「山本浩二は頭部死球を受けるも二冠王(本塁打王&打点王)を獲得していた!」に続く