1976年、ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団すると、以後、セ・リーグを代表する外野手として活躍した、田尾安志(たお やすし)さんですが、プライベートはどのようなものだったのでしょうか。
今回は、そんな田尾安志さんの奥さんとの馴れ初め、結婚に至った経緯、結婚後の夫婦関係、子供についてご紹介します。
「田尾安志の病気は心アミロイドーシス(指定難病)で現在も治療中!」からの続き
田尾安志の妻・宏子との馴れ初めは?
田尾安志さんは、プロ入り4年目の1979年12月16日、26歳の時、ロックシンガーのMADAM REY(マダムレイ)こと宏子さん(20歳=活水女子短期大学2年生)と結婚しています。
田尾安志さんと宏子さんは、1979年、長崎で開催された試合後の食事会で知り合うと、これをきっかけに交際するようになったそうで、交際は順調に進み、同年12月16日、宏子さんが短期大学を卒業する前に結婚したそうです。
ちなみに、宏子さんのお母さんは西鉄ライオンズ(現在の西武)の職員で、平和台球場のウグイス嬢(場内アナウンス)もしていたため、稲尾和久さん、中西太さん、高倉照幸さんたちと仲が良く、
その関係で、娘である宏子さんもプロ野球関係者と食事をする機会が多く、田尾安志さんともそんな中で知り合ったそうで、
宏子さんは、結婚に至って経緯について、
3カ月後に卒業式を控えていましたが、そのシーズン、パパは少し不振だったので、実父は『今がいい』と。好成績の時に結婚して成績が落ち込むと、新妻が矢面に立たされかねません。球界事情を知る、親心だったんでしょうね
と、語っています。
(宏子さんは、佐賀県伊万里市生まれ、祖先は佐賀藩の御典医(ごてんい)で、実家は病院を経営する名家の出身だそうです)
田尾安志は妻・宏子が野球を全く知らないことで癒やされていた
結婚後、田尾安志さんは、名古屋市内に新居を構えたそうで、試合や練習を終えて帰宅すると、毎日、妻の宏子さんにマッサージしてもらったそうですが、
宏子さんはまったく野球を知らなかったことから、それが逆にいい関係を築けたそうで、
田尾安志さんは、
癒やされた?あるかもしれないですね。変に野球を知っていて「パパ、きょうはこうだったよ」と言われたら、「うるさい」と怒鳴っていたかもしれません。
まったくそういう話はないので。家に帰ると、違う話題の時間が取れた。それは良かったかもしれません。家を出て、野球をしにいくという感じですね。
と、語っています。
田尾安志は妻・宏子に自身の打席のビデオ録画を頼んでいた
また、田尾安志さんは、いつも、宏子さんに自身の打席のビデオを録画しておくよう頼んでいたそうで、
(そのため、宏子さんは、家事をしながら、その合間に、田尾安志さんの打順が回ってきそうになったら、ビデオの録画スイッチを入れていたそうです)
田尾安志さんは、それを家に帰ってから見るようにしていたそうですが、何度も見ることで、打席での悪いところを修正することができたそうです。
(現在は、打席のビデオ録画は球団スタッフがやってくれるそうですが、田尾安志さんの時代は誰もやってくれる人がおらず、妻の宏子さんに頼んだそうです)
田尾安志は野球を知らない妻・宏子に自身の変化を尋ね参考にしていた
すると、毎日のように録画を続けていた宏子さんは、(野球は分からないながら)田尾安志さんの変化に気がつくようになっていったそうで、
田尾安志さんが、調子が悪い時、いつもと違うところがあるかと尋ねると、
背番号がこっち側に見えている
ちょっと番号の部分がいつもより入りすぎている
顔の表情がちょっと優しすぎる
怖い顔のときの方がよく打っている。ちょっと優しくなっているときはだいたいあかん
などのアドバイスをしてくれたそうで、とても参考になったのだそうです。
(そんな田尾安志さんは、プロ6年目の1981年から4年連続で3割をマークするなど活躍し、1980年から7回連続でオールスターゲームに選出されるなど、セ・リーグを代表する打者になっています)
田尾安志の妻・宏子はロック歌手MADAM REYとして音楽活動
ところで、宏子さんは、高校時代、ディープ・パープルに憧れ、ロック歌手「MADAM REY」として音楽活動をしていたそうですが、結婚後は音楽から離れ、主婦業や子育てに専念していたそうです。
(田尾安志さんは、一切「やめろ」とは言っておらず、宏子さんが自分の中でけじめをつけていたのだろうと思っているそうです)
そして、子育てが一段落した30代から、「Rey」の名で、ポップス歌手としてステージに立つようになり、1998年には、「MY BOY」で歌手デビューを果たしています。
(同曲は関西テレビのバラエティー番組「おもしろ旅美人」のテーマ曲に採用されています)
しかし、田尾安志さんが2005年に楽天の監督を辞任すると、宏子さんも「Rey」としては引退し、その後は、もともと好きだったヘビーメタルやハードロック歌手に転身し、2006には、「MADAM REY」として、ヘビーメタルのアルバム「FUTAMATA」をリリースしています。
(田尾安志さんが楽天の監督在任中は、ライブ活動を中断してサポートに専念していたという話も)
ただ、宏子さんは、結婚した当初は、ロックが好きだということは、田尾安志さんには黙っていたそうで、
田尾安志さんも、
女房はロックが好きなんですけど、最初は知りませんでした。結婚するときにも、そういうそぶりを一切見せませんでした。でも「もともと好きだった」とは言っています。
僕は1回だけ、ライブコンサートに一緒に参加したことがあるんです。でも、そのときはアコースティックバージョンにしてもらいました。おとなしめで。「そうじゃないと、行かないよ」と言いました。
あんなふうにずっと立ちっぱなしで、音も大きいし…。あれは、僕にはちょっと無理です。
と、語っています。
これに対し、宏子さんは、
思いの丈を込めてシャウトするロックは心が解放され、歌い切った後の快感もハンパないんです。でも最初、パパに『ロックを歌う』と言ったら、冗談半分で『離婚してからね』って(笑い)
野球のことは詳しくないので、内助の功なんておこがましいことは言いません。でも、少しでもパパの負担を減らしてあげたいな、って思っています。ライブ? アコースティック系なら、もちろん帯同です。ウチは結構、仲良しなんですよ。フフフ
と、語っています。
田尾安志さんとMADAM REY(宏子)さん。
田尾安志は結婚当初は亭主関白だった
そんな田尾安志さんと宏子さんの間には、3人の子供が誕生しているそうです。
ただ、結婚して1年経たない頃に長男が誕生すると、田尾安志さんは、子供が泣き出すと、「泣きやませろ」と言ったそうで、宏子さんは夜中に家の外に行き、子供をあやしていたといいます。
(田尾安志さん自身は覚えていないそうですが、当時は、きついことを言っていたかもしれないと反省し、今は罪滅ぼしをしているそうです)
田尾安志の息子(長男)は歯科医師の田尾耕太郎
さておき、田尾安志さんの長男は、1980年8月8日に誕生した、歯科医師の田尾耕太郎(たお こうたろう)さんです。
田尾耕太郎さんは、1999年3月に私立甲南高等学校卒業すると、同年4月には松本歯科大学歯学部歯学科入学し、2005年には歯科医師国家試験に合格して、歯科医師となっているそうです。
現在は、歯科医師として活動するかたわら、歯科ポータルサイト「歯医者/歯科情報の歯チャンネル」「デンターネット」の製作、運営も行っているそうです。
ちなみに、田尾耕太郎さんも、若い頃は野球をしていたそうですが、お父さんの田尾安志さんに、「お前の実力では(野球で)飯を食えない」と諭され、野球をあきらめたのだそうです。
田尾安志の息子(次男)はミュージシャンの田尾洋輔
次男は、ミュージシャンの田尾洋輔さんで(生年月日は不明)、
田尾洋輔さんは、お母さんのラジオ番組「MADAM REYのメッチャ★ROCK」でパーソナリティを務めるほか、2016年に、お母さんのアルバム「Afternoon T」発売記念ライブが開催された際には、前座を務めるなど、お母さんと共に、音楽活動をしていることが多いようです。
田尾洋輔さん。
田尾安志の娘(長女)はミュージシャンの田尾ぱんだ
長女は、ミュージシャンの「田尾ぱんだ」こと志織さんです。
田尾ぱんださんは、2022年5月31日に、
父のYouTubeチャンネル【Tao Channel】や
Yahooニュースでご覧になった方もおられると思いますが
父が「心アミロイドーシス」という難病を患っている事を公表しました
69になっても老眼すらなかった怪物の父に
手の痺れや動悸息切れ等の症状が出てから数ヶ月・・・。
色んな検査を経て、これから治療に取り組んでいくようです。
たくさんの心配のお声や温かいお言葉、本当にありがとうございます。
父は至って前向きです!
治りはせずとも、現在では進行を遅らせる事の出来る病気らしいです
ほんの少しの異変が、実は大きな病気の警鐘である可能性もあるという事がよく分かりました。
この投稿を読んで下さっている皆様も
ちょっとした異変を見過ごして後悔したりする事がありませんように
と、自身のインスタグラムに、父・田尾安志さんの病気のことを綴っており、とてもお父さん思いの優しい娘さんのようです。
田尾安志さんと娘の田尾ぱんださん。
1976年、ドラフト一位指名で中日ドラゴンズに入団すると、この年には新人王を獲得し、1982年には、打率3割5分をマークする活躍で優勝に貢献するほか、この年から3年連続セ・リーグ最多安打を記録した、田尾安志(たお やすし …