日本大学藝術学部在学中、パリで撮影したモノクロのセルフポートレイトが写真家・篠山紀信さんの目に留まり、「週刊朝日」の表紙のモデルとなると、その後、モデルとして活動するほか、写真家、文筆家として、マルチな活動を展開している、串田明緒(くしだ あきお)さん。
今回は、そんな串田明緒さんの若い頃から現在までの活動や経歴を、生い立ちを交えて時系列でまとめてみました。
串田明緒のプロフィール
串田明緒さんは、1973年7月10日生まれ、
青森県八戸市の出身、
身長170センチ、
スリーサイズは、84-62-90、
靴のサイズは24センチ、
学歴は、
日本大学芸術学部文芸学科卒業、
だそうです。
串田明緒は高校生の時まで青森県八戸市で暮らしていた
串田明緒さんは、高校生まで青森県八戸市に住んでいたそうで、実家は下北半島近くの自然豊かな場所にあったそうですが、
高校時代は、学校と家の往復で、遊びに行くといったら、友達の家や街に行くぐらいで、特に、自然を意識したことはなかったそうです。
(串田明緒さんは、2018年には、青森の寒立馬(かんだちめ)をモチーフに撮影を行い、「Talking with the Horses –naked winter-」と題した写真展を行っているのですが、この時、青森県下北半島の北東端に位置する尻屋崎を訪れた際には、高校生まで過ごした青森とは全然違う印象だったそうです)
串田明緒は大学時代に写真家・篠山紀信に見出され「週刊朝日」の表紙のモデルを務めていた
串田明緒さんは、高校卒業後は、日本大学藝術学部に進学すると、大学在学中には、出版社で撮影アシスタントのアルバイトをしていたそうですが、
そんな中、パリで撮影したモノクロのセルフポートレイトが写真家・篠山紀信さんの目に留まり、「週刊朝日」の表紙のモデルとなったそうです。
また、同時に、篠山紀信さんが女子大生たちを撮影していく光景を写真と文章で綴る巻頭ページも手掛けたそうです。
串田明緒は26歳の時から俳優や歌舞伎などを題材にしたポートレートやルポルタージュを撮影
その後、串田明緒さんは、モデルとしてファッション誌、CM、ショーなどで活動するかたわら、独学で写真を学んだそうで、
1999年、26歳頃からは、演劇の現場に行くようになると、俳優、歌舞伎、現代演劇、フランスのサーカス芸人、競走馬、北東北の農村歌舞伎などを題材としたポートレートやルポルタージュを撮影しています。
串田明緒の現在は?
そんな串田明緒さんは、現在まで、
- 舞台、映画のポスターやパンフレットを数多く手掛けている
- 国内外で写真展を開催
- 写真集・フォトブックなどを出版(「拝啓 平成中村座様」「わたしの上海バンスキング」など多数)
- 2010年よりキヤノン EOS学園講師
など、精力的に活動しています。
串田明緒の夫は演出家で俳優の串田和美
串田明緒さんは、30歳年上の俳優で演出家の串田和美さんと結婚しています。
串田明緒さんの夫の串田和美さん。
串田明緒さんは、串田和美さんとは、六本木の「アンダーグラウンド自由劇場」で知り合ったそうですが、串田明緒さんは、プライベートをほとんど明かしていないため、いつ頃から交際して、どのような経緯で結婚に至ったのかは不明です。
ただ、息子さんが1999年に誕生しているので、少なくともそれ以前には結婚していると思われます。
また、結婚後も夫婦仲は良好のようで、串田明緒さんは、2013年には、夫・串田和美さんの代表作「上海バンスキング」や「オンシアター自由劇場」について、串田明緒さんの視点で綴った著書「わたしの上海バンスキング」を発表しているのですが、
串田和美さんと共に訪れた上海の写真が収められているほか、串田和美さんの「劇団俳優座」養成所時代の後輩で脚本家の斉藤憐さんとの出会いなども綴られているそうで、ご主人の作品をとても大切に思う串田明緒さんの気持ちが伝わってくる1冊になっています。
串田明緒の息子は俳優の串田十二夜
串田明緒さんは、1999年2月19日、夫・串田和美さんとの間に、男の子を1人出産しています。
その男の子は、串田十二夜(くしだ じゅうにや)さんで、2021年10月に、「西の人気者」で本格的に舞台デビューを果たすと、以降、4作品でお父さんの串田和美さんと共演し、俳優として活動しています。
串田明緒さんの息子の串田十二夜(くしだ じゅうにや)さん。
(「十二夜」という独特な名前は、シェークスピアの「十二夜」から名付けられたそうです)
ちなみに、夫の串田和美さんは、串田明緒さんとは再婚で、前妻との間にも男の子が1人誕生しており、俳優で演出家の串田杢弥(くしだ もくや)さんです。
日本大学芸術学部を中退後は、「俳優座養成所」「劇団文学座」の研究生を経て、1966年には、「劇団 自由劇場」(後に「オンシアター自由劇場」に改称)の旗揚げに参加すると、以降、「もっと泣いてよフラッパー」(1977年)、「 …