1977年、16歳の時、ロックバンド「LAZY(レイジー)」としてデビューするも、1981年には「LAZY」を解散して、ソロ歌手に転向し、その後、アニメソング歌手として人気を博した、影山ヒロノブ(かげやま ひろのぶ)さん。
今回は、そんな影山ヒロノブさんの、ロックバンド「LAZY」でのデビューから解散までの経歴を時系列でまとめてみました。
「影山ヒロノブの生い立ちは?小5でギター!レイジーは中1で結成していた!」からの続き
影山ヒロノブは高校1年生の時に本格的にプロを目指すためバンド「LAZY(レイジー)」のメンバーチェンジをしていた
影山ヒロノブさんは、高校に入ったばかりの頃、自身のロックバンド「LAZY(レイジー)」で、テレビの音楽番組のオーディションを2回受けたそうですが、2回とも落選してしまったそうで、
本格的にプロを目指し、ドラムを、メンバーで友人の高崎晃さんが入った高校の2年先輩の樋口宗孝さん、キーボードは、影山ヒロノブさんが高校の軽音楽部で知り合った、演奏力が高くプロ志向が強かった、井上俊次さん(現・バンダイナムコアーツ副社長)にメンバーチェンジし
高校1年生の10月頃、朝日放送の「ハロー・ヤング」という音楽番組のオーディションを受けると、見事、一発で合格したのだそうです。
影山ヒロノブは16歳の時に「LAZY(レイジー)」で「Hey! I Love You!」でデビューするも全く売れなかった
そして、1977年2月頃(16歳)、「ハロー・ヤング」の番組収録があり、その収録を終えると、司会の1人だった、かまやつひろし(ムッシュかまやつ)さんに、控室に招かれ、
僕がデビューさせるからお前ら東京来いよ!
と、言ってもらったそうで、
(かまやつひろしさんが楽屋に来てくれたという話も)
急転直下で、4月にメンバー全員で上京し、7月には、「和製ベイ・シティ・ローラーズ」の触れ込みで、ファーストシングル「Hey! I Love You!」でデビューしたのだそうです。
ただ、さっぱり売れなかったそうです。
ちなみに、影山ヒロノブさんは、上京した時のことを、
高校生のガキなんて、そんな決断力持ってなくて当たり前なんですけど、樋口さんはその点すごく野生的で、「俺はプロになる。お前らどうすんねん?」と迫ってくるんですよ。その強引さのおかげで、メンバーみんな、この世界に入ることになりました。
と、語っています。
影山ヒロノブは16歳の時に「LAZY(レイジー)」でアイドル的な「和製ベイ・シティ・ローラーズ」として売り出され戸惑っていた
というのも、かまやつひろしさんは、
よし!東京行ってロックやろうよ!
と、言ってくれたそうですが、
その頃は、ベイ・シティ・ローラーズが流行っていたこともあり、レコード会社とプロダクションの意向で、ロックバンドではなく、アイドル的な形で売り出されたそうで、
慣れないポップ調に、ロンクバンド志向だった影山ヒロノブさんたち「LAZY(レイジー)」は戸惑っていたのだそうです。
(かまやつひろしさんは「ポール・ロジャースにプロデュースさせよう」「格好もそのまんまでOK」と言ってくれていたため、影山ヒロノブさんは「あぁ、このまま俺たちロックできるんだ」と思っていたそうですが、かまやつひろしさんは、大きいことばかり言うため、徐々にプロデュースチームから外されていったそうです)
影山ヒロノブは16歳の時に「LAZY(レイジー)」でセカンドシングル「カムフラージュ」をリリースするも売れなかった
そんな中、デビューするも、全く売れず、影山ヒロノブさんたちは、がっくりしたそうですが、
セカンドシングル「カムフラージュ」は少し方向転換し、当時売れっ子のピンク・レディーでヒット曲を飛ばしていた都倉俊一さんに作曲をお願いし、かまやつひろし(ムッシュかまやつ)さんのセッティングで、作詞は松任谷由実さんに決まり、
「これでダメならどうするの」というくらい最高の組み合わせだったそうですが、これも周囲の期待ほど売上は伸びなかったのだそうです。
影山ヒロノブは16歳の時に「LAZY(レイジー)」でサードシングル「赤頭巾ちゃん御用心」が大ヒット
しかし、1978年2月5日、サードシングル「赤頭巾ちゃん御用心」をリリースすると、20万枚以上を売り上げる大ヒットを記録したそうで、
当時、影山ヒロノブさんたち「LAZY(レイジー)」は、バラエティ番組「ぎんざNOW!」の金曜レギュラーとして出演していたそうですが、
銀座界隈に、女子中高生が学校が終わった後にうわーっと集まって来て、ガードマンの間をかいくぐって中に入ろうとする子がいたりとすごい人気者になったのだそうです。
ちなみに、事務所からは、
次で売れなければ契約打ち切り
と、最終通告されていたそうですが、
逆に、これが売れなければ、契約を解除され、ハードロックバンドに戻れると、影山ヒロノブさんらは、希望的観測をしていたそうで、
そんな中、予想外に大ヒットして、希望を裏切られ、アイドルとして活動を継続させられることを余儀なくされてしまったそうで、
影山ヒロノブさんは、
でもね、今思えばそれがよかったのか、悪かったのかはわからないんだよね。そこで無理矢理ハードロックでデビューしたとして、俺たちが今、ここに残れてるかどうかは本当にわからない。
あの頃、お仕着せのアイドルをやらされてイヤだったのは本当のことなんだけど、それが失敗だったとは言えない。とにかく俺たちは売れたし。
それが、その後の「LOUDNESS」(※LAZY解散後、高崎晃、樋口宗孝らが結成するバンド)にも、「NEVERLAND」(※LAZY解散後、井上俊次、田中宏幸らが結成するバンド)にも、僕がソロ・シンガーとして今日歌えていることにもつながっていくわけだしね。
と、語っています。
影山ヒロノブは19歳の時に「LAZY(レイジー)」で「ヘヴィ・メタル宣言」をしていた
こうして、影山ヒロノブさんたち「LAZY(レイジー)」は、その後もアイドル路線のシングルを次々とリリースしたそうですが、
その一方で、ライブでは、ロックナンバーを演奏するなど、自分たちのこだわりを見せていたそうで、「やりたい音楽」と「求められる音楽」のギャップを感じ続けていたそうです。
そんな中、新たにプロデューサーに就任した伊集院静さんに、
君たち、本当はどんな音楽がやりたいんだ
と、尋ねられ、
ハードロックがやりたいです
と、答えると、
やってみればいいじゃないか
と、言われ、
箱根のロックウェルスタジオに籠もり、本来のハードロック回帰を狙ったアルバムの制作に取りかかるほか、雑誌の取材でも「ロックがやりたい」と公言して、平気でたばこも吸うようになり、
1980年7月からの全国ツアー「DOMESTIC TOUR IN SUMMER」では、「アイドル路線はもう終わり」と「ヘヴィ・メタル宣言」。
しかし、このことで、最年長でリーダーだった樋口宗孝さんと事務所の藤田浩一社長が衝突し、樋口宗孝さんが解雇寸前となるなど大騒動が起きたのだそうです。
影山ヒロノブは19歳の時に「LAZY(レイジー)」で「宇宙船地球号」をリリースするもメンバー間の音楽性の違いが浮き彫りになっていた
さらには、最後には、「勝手にしろ!」と言われ、アルバムのレコーディングにスタッフが誰も来なくなるなど、事務所から見放されてしまったそうですが、
その後、1980年12月、ついに、影山ヒロノブさんたち「LAZY(レイジー)」は、ハードロック志向のアルバム「宇宙船地球号」をリリース。
「LAZY」にとって、原点回帰となったこの「宇宙船地球号」が、本当のスタートになるかと思われたのですが・・・
5人が各自の音楽を突き詰める経験をしたことで、メンバーの方向性の違いがはっきりと浮き彫りになったのだそうです。
(高崎晃さん、田中宏幸さん、樋口宗孝さんは、より本格的なヘヴィメタルを追求したかったそうですが、影山ヒロノブさんと井上俊次さんはハードロックより過激なヘヴィメタルという新しい音楽性について行けなくなったのだそうです)
影山ヒロノブは20歳の時にメンバーとの音楽性の違いから「LAZY(レイジー)」を解散していた
そんな中、1981年、年明け早々、藤田浩一社長に、
もうさ、君たち解散したらいいじゃない
と、切り出されたそうで、
影山ヒロノブさんたちは、メンバー間で音楽性の違いをはっきり感じていたことから、同年5月31日、名古屋公演でのライブを最後に、「LAZY(レイジー)」は解散したのでした。
ちなみに、影山ヒロノブさんは、
LAZYの後期には、高崎、樋口はもう、アイアン・メイデン、ヴァン・ヘイレン、ジューダス・プリーストに向かってましたし、とにかく「売れなくてもいいからハードロックがやりたい」といつも言ってました。
僕、井上、田中の3人は、ジャーニーやTOTOなんかの、後に「AOR」って呼ばれるようになるウェストコースト・ロックが好きになってたんで、方向が違ってきていたのも事実でした。
なので、彼らが目指すようなヘヴィメタルは、僕たちには似合わないんじゃないかな……とは思ってました。僕自身も、確かにハイトーンは出るけど、ヘヴィメタルに合うシンガーではないことを自分でもよくわかっていたんで、このままタッカン(高崎晃さん)、樋口さんと一緒には行けないなというのは自覚していました。
と、語っています。
「【画像】影山ヒロノブの若い頃(ソロ以降)から現在までの経歴を時系列まとめ!」に続く
1977年、16歳の時、ロックバンド「LAZY」として、「Hey! I Love You!」でデビューするも、実質的にはアイドル活動だったことから不満を募らせ、19歳の時には、「ヘヴィ・メタル宣言」するも、この年、「LA …