1942年、「富島松五郎伝」で初舞台を踏むと、以後、美人ながら演技派女優として、長年活躍し、晩年は、NHKの連続テレビ小説で主人公の祖母役を多く演じた、丹阿弥谷津子(たんあみ やつこ)さん。

そんな丹阿弥谷津子さんは、高校3年生の時に、「文学座」に研究生として入座すると、清楚な美貌と確かな演技力で「文学座」の看板女優として活躍し、26歳の時には、映画などの映像の世界にも進出し、主にヒロインを務めました。

今回は、そんな丹阿弥谷津子さんの若い頃から現在までの経歴を、生い立ちから時系列でまとめてみました。

丹阿弥谷津子

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丹阿弥谷津子のプロフィール

丹阿弥さんは、1924年6月25日生まれ、
東京市本所区両国(現・東京都墨田区両国)の出身、

身長157センチ、

血液型はO型、

学歴は、
東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)
⇒東京府立第十高等女学校(現・東京都立豊島高等学校)
⇒文化学院文学部卒業
(1ヶ月後に同校の自由主義的教育が国策に合わないという理由で閉鎖されています)

ちなみに、「丹阿弥谷津子」は本名で、

お父さんは、日本画家の丹阿彌岩吉(たんあみ いわきち)さん、
お母さんは、桐塑人形作家の丹阿彌とみゑさん、
妹さんは、銅版画家の丹阿弥丹波子(たんあみ にわこ)さんです。

丹阿弥谷津子は高校3年生の時に「文学座」に研究生として入座していた

丹阿弥谷津子さんは、若い貧乏画家だったお父さんとお母さんのもと、2人姉妹の長女として誕生すると、築地でお芝居を観ることが好きだったお母さんに、新劇の女優になることを勧められたそうで、

お父さんが、知り合いだった小説家で劇作家の久保田万太郎さんに相談すると、「文学座」を勧められたことから、1942年2月、高校3年生の時に、「文学座」に研究生として入れてもらったそうです。

丹阿弥谷津子は高校3年生の時に「富島松五郎伝」の端役で初舞台を踏んでいた

そんな丹阿弥谷津子さんは、高校3年生のある日、学校が終わった後、(「文学座事務所」と稽古場に借りていた)神田錦町河岸の錦橋閣まで、丸山定夫さん客演の舞台「富島松五郎伝」の稽古を見学しに行ったそうですが、

突然、その舞台に、端役で出ることになり、これが初舞台となったそうです。

丹阿弥谷津子は21歳の時にチェーホフの「桜の園」のヒロイン・アーニャ役に抜擢され、一躍、脚光を浴びていた

その後、丹阿弥谷津子さんは、1945年12月、21歳の時、新劇合同公演チェーホフの「桜の園」のヒロイン・アーニャ役に抜擢されると、一躍、脚光を浴びているのですが、

実は、丹阿弥谷津子さんは、戦中戦後の5年間、家族で信州の松尾村(現・飯田市松尾)に疎開していたそうで、文学座がどうしているのか知らず、隣村に疎開していた「文学座」の創立メンバーだった岸田國士さんを訪ねて行ったことがきっかけで、岸田國士さんと交流が始まり、

その後、1945年8月15日、終戦となっても、丹阿弥谷津子さんの一家は、家が燃えてなくなっていたことから、東京へ帰ることができず、そのまま疎開先の信州に留まっていたそうですが、岸田國士さんから連絡があり、アーニャ役に抜擢されたことを知ったのだそうです。

丹阿弥谷津子は28歳~29歳の時に映画「東京のえくぼ」でヒロイン、「にごりえ」で主演を務めていた

そんな丹阿弥谷津子さんは、その後も、舞台「シラノ・ド・ベルジュラック」でロクサーヌ役、「マリウス」でファニー役など、清楚な美貌と確かな演技力で、「文学座」の看板女優として活躍を続けるのですが、

一方で、1950年、26歳の時には、「アルプス物語 野性」で映画デビューも果たし、以降、立て続けに映画に出演すると、1952年、28歳の時には、「東京のえくぼ」でヒロイン、1953年、29歳の時には、「にごりえ」で主演を務めています。

「東京のえくぼ」に出演する丹阿弥谷津子
「東京のえくぼ」より。

丹阿弥谷津子は39歳の時に「文学座」を脱退していた

しかし、1963年11月、作家の三島由紀夫さんの戯曲「喜びの琴」の上演を、「文学座」の座長・杉村春子さんらが、いくつかのシーンを問題視し、拒否したことにより、三島由紀夫さんが「文学座」を脱退すると(「喜びの琴」事件)、

丹阿弥谷津子さんも、翌月の12月、三島由紀夫さんに同調した10数名のメンバーとともに「文学座」を脱退しています。

丹阿弥谷津子は40歳の時に三島由紀夫らと共に「劇団NLT」を結成していた

丹阿弥谷津子は、1964年、40歳の時には、三島由紀夫さんと脱退メンバーと共に「劇団NLT」を結成すると、1965年11月には、三島由紀夫さんの戯曲「サド侯爵夫人」で、主演のサド侯爵夫人・ルネ役を演じています。

「サド侯爵夫人」に出演する丹阿弥谷津子
「サド侯爵夫人」より。左端が丹阿弥谷津子さん。

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丹阿弥谷津子の50代~100代(現在)

その後も、丹阿弥谷津子さんは、数多くの作品に出演しているのですが、

2008年8月6日、84歳の時には、広島市で行われた「桜隊原爆殉難者追悼会」に特別ゲストとして参加しています。

桜隊原爆殉難者追悼会

というのも、丹阿弥谷津子さんは、広島の友人とその家族が原爆投下の影響により被爆して亡くなっており、丹阿弥谷津子さんにとって、広島という場所には特別な思いがあるのだそうです。

実は、この「桜隊」は、1942年に、薄田研二さん、徳川夢声さん、丸山定夫さん、藤原釜足さんを中心に結成された「苦楽座」を前身とする劇団で、1945年には「桜隊」として改名すると、移動劇団として、地方へ慰問巡演活動をしていたそうですが、

1942年、丹阿弥谷津子さんが「文学座」の研究生となり、同年、「富島松五郎伝」で初舞台を踏んだ際、この舞台に特別参加(客演)していたのが、この「桜隊」の隊長だった丸山定夫だったのだそうです。

そして、丹阿弥谷津子さんたち「文学座」のメンバーも移動演劇で各地を巡演しており、原爆が落ちる前年の1944年には広島も訪れていたそうですが、丸山定夫さんは、地方巡業するたびに、移動演劇のためのコースも作ってくれていたのだそうです。

しかし、1945年8月6日、広島市に原爆が投下されたことで、「桜隊」のメンバーは被爆し、丸山定夫さんを含む9名が他界されたのだそうです。

お読みいただきありがとうございました

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