1952年に放送作家としての活動をスタートさせると、以降、60年以上もの長い間に渡って、放送作家、作詞家として活躍した、永六輔(えい ろくすけ)さん。
そんな永六輔さんは、中学時代、学費を稼ぐため、三木鶏郎(トリロー)さんのNHKラジオ番組「日曜娯楽版」のコント募集に応募し、その賞金でお金を稼ぐようになると、高校生の時には、三木鶏郎さんに、「トリロー文芸部」に来ないかと誘われたといいます。
今回は、永六輔さんの、生い立ち(幼少期から高校時代まで)をご紹介します。
永六輔のプロフィール
永六輔さんは、1933年4月10日生まれ、
東京府東京市浅草区(現・東京都台東区)の出身、
血液型はAB型、
学歴は、
新堀(しんぼり)尋常小学校(後に国民学校)
⇒南大井国民学校(現・小諸市美南ガ丘小学校)
⇒旧制上田中学(現・長野県上田高等学校)
⇒早稲田中学校
⇒早稲田高校
⇒早稲田大学第二文学部史学科中退
ちなみに、永六輔さんの本名は「永孝雄(えい たかお)」なのですが、芸名の「六輔」は、まだ、放送作家として駆け出しだった19歳の時、コントを書きながら出演していた子供番組の役名がそのままペンネームになったのだそうです。
永六輔の幼少期~小学校時代は身体が弱かった
永六輔さんは、東京の浅草永住町(現・台東区元浅草3丁目)の最尊寺(浄土真宗)の16代目住職のお父さんの永忠順さん、お母さんの登代さんのもと、6人兄弟の2番目、次男として神田・御茶ノ水の順天堂産院(現・順天堂大学医学部付属順天堂医院)で誕生するのですが、幼い頃は身体が弱く、通院・入院を繰り返していたそうです。
そのため、小学校時代は、ほとんど学校に通うことはできず、読書やラジオを聴いて過ごすことが多かったそうです。
1952年、早稲田大学在学中の19歳の時、三木鶏郎さんの事務所「トリロー文芸部」に在籍し、放送作家としての活動をスタートさせると、以降、60年以上も、放送作家、作詞家として活動した、永六輔(えい ろくすけ)さん。今回は、 …
永六輔は小学5年生の時に疎開先の信州で病気が治っていた
そんな中、1941年、小学2年生(8歳)の時、太平洋戦争が始まり、1944年、小学5年生(11歳)の時、信州の北佐久郡(現・小諸市)に学童疎開することになると、
身体が弱かったことから、医師には疎開することを止められたそうですが、結局、疎開すると、すっかり病気が治ったのだそうです。
信州(長野県)に学童疎開すると、「永」という中国姓のせいでイジメられていたという、永六輔(えい ろくすけ)さんですが、病気の方は、病院に行けなかったにもかかわらず、むしろ元気になり、すっかり治ったといいます。 「永六輔の …
というのも、永六輔さんが身体が弱かったのは、永六輔さんの実家であるお寺がとても貧しく、栄養失調からくるものだったのだそうです。
栄養失調で身体が弱く、ほとんど学校へ行くことができずに、病院の中で過ごすことが多かったという、永六輔(えい ろくすけ)さんですが、栄養失調になったのは、実家のお寺が貧しかったからだといいます。 「永六輔の生い立ちは?病弱 …
永六輔さんは中学2年生の時に東京に戻り鉄くず集めで小遣い稼ぎをしていた
その後、永六輔さんは、終戦後もしばらく疎開先の信州にとどまり、1947年、中学2年生(14歳)の時に東京に戻ると、東京の実家は焼失していたことから、お父さんの建てたバラックに住み、鉄くずを集めて小遣い稼ぎをしたそうです。
永六輔は中学時代はNHKのラジオ番組「日曜娯楽版」のコントの賞金でも稼いでいた
また、永六輔さんは、中学時代は、月謝代を稼がなければならなかったため、いろいろなアルバイトをしたそうですが、その中でも、一番効率的に稼げたのが、NHKだったそうで、
永六輔さんは、三木鶏郎(トリロー)さんのNHKラジオ番組「日曜娯楽版」のコント募集に応募し、その賞金でお金を稼いだのだそうです。
(コントが採用されると、(大人が丸1日働いた収入が240円の時代に)1本につき、300円ももらったのだそうです)
疎開先の信州では、東京のお父さんからの仕送りが途絶えがちで、農家に身を寄せて肩身の狭い思いをしながら暮らしていたという、永六輔(えい ろくすけ)さんですが、終戦から約2年後、ようやく東京に戻ると、お父さんの手作りのバラッ …
永六輔は中学時代は映画に夢中になり「映画の友」編集長の淀川長治に師事していた
ちなみに、永六輔さんは、中学2年生の途中に疎開先から東京に戻った際、(旧制)早稲田中学校に編入したそうですが、疎開中にすっかり学力が落ち、取り戻すことができなかったそうで、神田や新宿に映画館通いをするようになったのだそうです。
また、映画雑誌を丁寧に読み込むなど、すっかり映画に夢中になると、愛読していた「映画之友」(後の「映画の友」)という雑誌が、若い読者を対象に「友の会」を募集していることを知ったそうで、
すぐにその会に参加すると、そこで、編集長だった淀川長治さんと知り合い、淀川長治さんに師事するようになったのだそうです。
(旧制)早稲田中学校在学中、ファンだった三木鶏郎さんのNHKラジオ番組「日曜娯楽版」にコントを投稿して稼いでいたという、永六輔(えい ろくすけ)さんですが、その一方で、映画にも夢中になっていたそうです。 「永六輔は少年時 …
中学生の頃、映画に夢中になり、雑誌「映画之友」の「友の会」の会員になると、編集長だった淀川長治さんと知り合い、一流を見分ける教えを受けたという、永六輔(えい ろくすけ)さんですが、その後何十年経っても忘れられない言葉があ …
永六輔さんは高校生の時に「日曜娯楽版」を手掛けていた三木鶏郎に「トリロー文芸部」に来るよう誘われていた
そんな中、永六輔さんは、三木鶏郎(トリロー)さんのNHKラジオ番組「日曜娯楽版」のコーナー「冗談音楽」に、コントの投稿を続けていたそうですが、
高校生の時には、「日曜娯楽版」を手掛けていた三木鶏郎さんに、「トリロー文芸部」に来ないかと誘われたそうです。
ただ、三木鶏郎さんは、永六輔さんがまだ高校生だと知ると、(文芸部には)高校を卒業してから来るように言ったそうで、永六輔さんは、高校卒業後の1952年、19歳の時、早稲田大学に進学後、正式に「トリロー文芸部」のスタッフとして採用されたのだそうです。
三木鶏郎(トリロー)さんのNHKラジオ番組「日曜娯楽版」の「冗談音楽」というコーナーでコントが採用されると、(大人が丸1日働いた収入が240円の時代に)コント1本につき300円もくれたことから、コントの投稿を続けていたと …
「【画像】永六輔の若い頃は「上を向いて歩こう」!デビューからの経歴を時系列まとめ!」に続く
1959年、作曲家・中村八大さんとのコンビで作詞した「黒い花びら」が大ヒットを記録すると、1961年には、坂本九さんに作詞した「上を向いて歩こう」が、日本のみならず、世界中でも大ヒットした、永六輔(えい ろくすけ)さん。 …