1956年に阪急ブレーブスに入団すると、入団1年目には9勝(4完封)、2年目には21勝、3年目には23勝を記録して、パ・リーグを代表する投手となり、その後も、1966年には25勝で最多勝、1968年には自己最多の29勝するなど、阪急、阪神、近鉄で、通算350勝という凄まじい記録を達成した、米田哲也(よねだ てつや)さん。
今回は、そんな米田哲也さんの若い頃(高校時代~プロ野球現役時代)の活躍や経歴を時系列でご紹介します。
米田哲也の10代の頃
高校1年生の時からエースとして活躍していた
米田哲也さんは、1953年、境高等学校に進学し、本格的に野球を始めると、もともとは捕手だったそうですが、投手に転向し、
高校1年生で、直球のほか、カーブ、シュート、スライダーを習得したそうで、高校1年生の秋からエースとして活躍したそうです。
少年時代から野球以外にもサッカー、陸上、卓球、剣道など様々なスポーツに親しみ、中学校時代は陸上の走り高跳びの選手としても活躍していたという、米田哲也(よねだ てつや)さんは、その後、1953年には、境高等学校に進学し、本 …
そして、高校2年生の時には、大阪(阪神)タイガースと国鉄スワローズのオープン戦で、渡辺省三投手(大阪)と金田正一投手(国鉄)が投げ合うのを見て、自分もプロでやっていけるかもしれない、と思ったそうです。
1956年、スカウトされて阪急ブレーブス(現・オリックスバファローズ)に入団すると、翌年の1957年から19年連続2桁勝利を挙げ、現役生活22年で、通算350勝、3388奪三振という凄まじい記録を残した、米田哲也(よねだ …
17歳の時には阪急と阪神の二重契約をしていた
それでも、米田哲也さんは、高校卒業後は、お父さんの勧めに従い、大学に進学するつもりでいたそうですが、阪急ブレーブスの丸尾千年次さんにスカウトされて阪急と契約すると、それを知った後援会の人たちから大阪(阪神)タイガースに入団することを説得され、阪神とも契約したそうで、
1956年1月10日、17歳の時、二重契約の中、阪神に入団したつもりで、阪神のユニホーム(背番号「41」)を着て、甲子園球場で行われた阪神の合同自主トレに参加したそうです。
高校2年生の時、大阪(阪神)タイガースと国鉄スワローズのオープン戦(米子市営湊山球場)で、渡辺省三投手(大阪)と金田正一投手(国鉄)が投げ合うのを見て、自分もプロ野球でやっていけるのではないかと思ったという、米田哲也(よ …
18歳の時に阪急ブレーブスに入団
そんな中、最終的には、米田哲也さんは、井上登コミッショナーの裁定により、阪急への入団となっているのですが、
実際のところは、井上登コミッショナーから希望を聞かれた米田哲也さんが、背番号18を用意してくれていた阪急への入団を希望したのだそうです。
阪急ブレーブス、大阪(阪神)タイガースと二重契約するも、阪神に入団したつもりで、1956年1月10日から、甲子園球場で行われた阪神の合同自主トレに参加していた、米田哲也(よねだ てつや)さんですが、その後、井上登コミッシ …
そして、1956年、18歳の時、阪急に入団すると、高知キャンプに参加し、いきなり150球の本格投球を披露して首脳陣を驚かせたのだそうです。
また、米田哲也さんは、打撃の方も凄まじく、打者転向を勧められたそうですが、米田哲也さんは、投手としてやっていくことにしたのだそうです。
19歳から19年連続2桁勝利を記録
そんな米田哲也さんは、プロ入り1年目の1956年から9勝すると、2年目の1957年、19歳の時には21勝、以降、19年連続2桁勝利を記録するほか、
1966年には25勝で最多勝、1968年には自己最高の29勝と、大車輪の活躍で、左のエース・梶本隆夫投手とともに「ヨネカジコンビ」と呼ばれ、阪急の黄金時代を築き上げたのでした。
1956年2月13日、仕切り直して、阪急ブレーブスに入団した、米田哲也(よねだ てつや)さんは、1年目から9勝すると、2年目には21勝し、以降、19年連続2桁勝利を記録するほか、1966年には25勝で最多勝、1968年に …
米田哲也の20代の頃
28歳の時にトレードが報じられていた
しかし、1966年には読売系のスポーツ新聞により、巨人へのトレードが報じられると、阪急球団側はこれをきっぱり否定するのですが、米田哲也さん自身は、10年選手ボーナスの金額を巡って球団側と揉めていたことから、阪急に愛着はあるものの、トレードに心が揺れ動いていたといいます。
阪急入団2年目に21勝すると、1966年には25勝で最多勝、1968年には自己最高の29勝するほか、19年連続2桁勝利を記録する活躍で、左のエース・梶本隆夫投手とともに「ヨネカジコンビ」と言われ、阪急の黄金時代を築き上げ …
28歳の時に阪急残留が決定していた
それでも最終的には、阪急・小林米三オーナーが米田哲也さんのトレードをはっきり否定し、10年選手ボーナスについても円満に解決すると語ったことで決着し、米田哲也さんは阪急残留が決定しています。
1966年1月12日、読売系のスポーツ新聞に巨人へのトレードが報じられると、実際、「10年選手ボーナス」の金額に不満を抱き、阪急には愛着があるものの、トレードを希望するなど、揺れ動いていたという、米田哲也(よねだ てつや …
米田哲也の30代の頃
33歳の時に史上5人目の通算300勝を達成
そんな米田哲也さんは、その後も、快進撃を続けると、1971年、33歳の時には史上5人目の通算300勝を達成しています。
37歳の時に通算400勝を目指し出場機会を求めて移籍を希望していた
しかし、入団20年目となる1975年、37歳の時には、登板機会が減り、2軍落ち。
そんな中、米田哲也さんは、金田正一さんの通算400勝を目指していたことから、出場機会を求めて他球団への移籍を申し出たそうで、
阪急球団は来季からコーチとして残留を希望するも、最終的にはトレードを了承したのだそうです。
1966年1月、巨人へのトレード話が上がるも、阪急・小林米三オーナーがきっぱり否定したことから、阪急残留が決まった、米田哲也(よねだ てつや)さんは、その後も、快進撃を続けると、1971年には史上5人目の通算300勝を達 …
38歳の時に皆川睦雄投手コーチと登板間隔を巡って揉め阪神を退団
こうして、1975年シーズン途中に、阪神タイガースに移籍した米田哲也さんですが・・・
一軍投手コーチだった小山正明さんが1975年限りで退団した後、小山正明さんに代わって投手コーチに就任した皆川睦雄投手コーチと登板間隔を巡って揉め、
入団わずか1年半後の1976年限りで阪神を退団(自由契約)してしまいます。
長年、阪急ブレーブスでエースとして活躍するも、入団20年目となる1975年、登板機会が減り、2軍落ちしたことで、出場機会を求めて他球団への移籍を申し出たという、米田哲也(よねだ てつや)さんは、シーズン途中に阪神タイガー …
39歳の時に近鉄で350勝を達成するも僅か11日後に現役引退
そんな米田哲也さんは、翌年の1977年、39歳の時、近鉄バファローズにコーチ兼任として移籍すると、この年、史上2人目の通算350勝を達成。
ただ、それからわずか11日後の10月18日には、現役引退を発表したのでした。
1975年シーズン途中に阪神タイガースに移籍するも、1976年には新たに投手コーチに就任した皆川睦雄さんと折り合いが悪く、同年限りで阪神を退団した、米田哲也(よねだ てつや)さんは、翌年の1977年には、近鉄バファローズ …
1956年に阪急ブレーブスに入団すると、阪急19年、阪神2年、近鉄1年で、通算350勝(日本プロ野球歴代2位)するほか、262完投、64完封、防御率2.91という凄まじい記録を残し、2000年には野球殿堂入りを果たした、 …
「米田哲也の若い頃(コーチ時代)から現在までの経歴を時系列まとめ!」に続く
1985年、阪神タイガースの一軍投手コーチに就任すると、右肩を壊していた中田良弘投手を復活させるほか、入団2年目の中西清起投手をストッパーに推薦するなど、投手コーチとしての才能を発揮し、阪神の21年ぶりの優勝に貢献した、 …