1985年、阪神タイガースの一軍投手コーチに就任すると、右肩を壊していた中田良弘投手を復活させるほか、入団2年目の中西清起投手をストッパーに推薦するなど、投手コーチとしての才能を発揮し、阪神の21年ぶりの優勝に貢献した、米田哲也(よねだ てつや)さん。
今回は、そんな米田哲也さんの若い頃(コーチ時代)から現在までの活躍や経歴を時系列でまとめてみました。
「【画像】米田哲也の若い頃が凄い!高校からプロ野球現役時代までの経歴を時系列まとめ!」からの続き
米田哲也の40代の頃
47歳の時に阪神タイガースの一軍投手コーチに就任
米田哲也さんは、1977年に現役引退後は、1978年から1984年まで野球解説者や野球評論家として活動すると、1985年、47歳の時には、阪急ブレーブスと近鉄バファローズ時代の監督だった西本幸雄さんに推薦され、吉田義男さんが監督に就任したばかりの阪神タイガースに一軍投手コーチとして就任します。
そして、吉田タイガースが始動すると、吉田義男監督はキャンプで3つのキャンプ規則を発表したそうですが・・・
米田哲也さんは、この規則を決めるコーチ会議で、吉田義男監督や他のコーチ陣の意見に、一人だけ反対したといいます。
1977年、近鉄バファローズに移籍すると、同年10月には史上2人目の通算350勝を達成するも、それから僅か11日後に現役引退を発表した、米田哲也(よねだ てつや)さんは、その後、野球解説者や野球評論家として活動すると、1 …
47歳の時に右肩を壊し力が出せずにいた中田良弘投手を復活させていた
それでも、米田哲也さんは、コーチ在任中の1985年、47歳の時には、右肩を壊し本来の力が出せずにいた中田良弘投手に、
お前を必ず復活させる
と、言うと、
中田良弘投手も、その期待に応えるかのように、勝ち星を積み重ねていき、見事、復活させています。
47歳の時に入団2年目だった中西清起投手をストッパーに推薦して阪神の球団史上初の日本一に貢献
また、入団2年目だった中西清起投手をストッパーに推薦すると、中西清起投手は、この年、見事、19セーブでセーブ王を獲得する活躍を見せるなど、
米田哲也さんは、投手コーチとして才能を発揮し、阪神の21年ぶりのリーグ優勝と球団史上初の日本一に貢献したのでした。
1985年、阪神タイガースの一軍投手コーチに就任すると、コーチ会議では、吉田義男監督や他のコーチ陣の意見に一人だけ反対したという、米田哲也(よねだ てつや)さんですが、在任中は、右肩を壊していた中田良弘投手を復活させ、中 …
48歳の時に阪神を退団
しかし、吉田義男監督とはもともと反りが合わなかった米田哲也さんは、1986年の開幕直後にブルペン担当に回されると、吉田義男監督への反発の気持ちから、シーズン終了後には阪神を退団しています。
米田哲也さん(左)と吉田義男さん(右)。
米田哲也の50代~80代(現在)
米田哲也さんは、阪神退団後は、1987年~1992年途中まで解説や評論家として活動しており、
- 1992年途中から1993年まで、オリックスの一軍投手コーチ
- 1994年には、日刊スポーツの野球評論家
- 1995年には、近鉄一軍投手コーチ
- 1996年~1997年には、再び、日刊スポーツの野球評論家
を務めていたそうです。
また、山根俊英さんらと鳥取県内で少年野球教室を開いたこともあったそうです。
そんな米田哲也さんは、2017年8月4日、79歳の時、中日ドラゴンズの岩瀬仁紀投手の登板試合数が、自身の記録949に並んだ際には、激励のメッセージを送っています。
1956年に阪急ブレーブスに入団すると、その無尽蔵とも思われたスタミナから、「人間機関車」「タフマン」と呼ばれ、NPB歴代2位の通算350勝を達成した、米田哲也(よねだ てつや)さんは、登板試合数949を記録しており、中 …
そして、2024年8月22日、86歳の時には、「NEWSポストセブン」の名物企画「言わずに死ねるか!」球界編(プロ野球のレジェンドたちは今のプロ野球をどう見ているか)の取材に応じ、
自身の経験をもとに、投手の“分業制”が球界の常識となっていることについて疑義を呈しており、今なお、野球に対して熱い気持ちを持っていることが分かります。
1956年に阪急ブレーブスに入団すると、入団1年目には9勝(4完封)、2年目には21勝、3年目には23勝を記録して、パ・リーグを代表する投手となり、その後も、1966年には25勝で最多勝、1968年には自己最多の29勝す …