高校時代、1試合25奪三振と通算83奪三振という不滅の記録を打ち立てると、1959年から1969年までの中日ドラゴンズでの現役時代11年間で通算77勝を挙げ、あの、世界の本塁打王・王貞治さんから一本もホームランを打たれなかったほか、リリーフ登板した際、巨人・国松彰選手を1球でショートゴロに打ち取るなど、特に、巨人戦での力投が光った、板東英二(ばんどう えいじ)さん。

今回は、そんな板東英二さんの若い頃(高校時代~プロ野球現役時代)の活躍や経歴を時系列でご紹介します。

板東英二

「板東英二の生い立ちは?小3で野球を始め中3の時にはエースとして活躍していた!」からの続き

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板東英二が10代の時は夏の甲子園大会で1試合25奪三振と通算83奪三振を記録していた

16歳の時に野球の特待生として徳島商業高等学校に進学

中学3年生の時、野球部のエースとなり、61連勝を記録した板東英二さんは、そんな活躍ぶりが関係者の目に留まり、中学卒業後の1956年、16歳の時には、野球の特待生として徳島商業高等学校に進学しています。

実は板東英二さんは、子供の頃から勉強が好きで、将来は小学校の先生になりたいと思っていたことから、本当は、普通高校に進学したかったそうですが、経済的な理由で断念したそうで、野球なら高校に行けると思い、徳島商業高等学校に進学したのだそうです。

16歳の時に野球部の監督やコーチの理不尽な暴力に耐えかね何度も退部届けを出していた

そんな板東英二さんは、徳島商業高等学校に進学すると、野球部に入部したのですが、練習は厳しく、疲れ果てて勉強どころではなく、授業中は寝てばかりいたそうです。

さらには、監督やコーチからは理不尽に殴られたそうで、そんな理不尽さに耐えかね、何度も退部届を出しに行ったそうですが、特待生として入部したため、退部は認められなかったのだそうです。

16歳の時にエース、17歳の時にキャプテンとして野球部を牽引していた

こうして、仕方なく、練習に励んだという板東英二さんですが、高校1年生(16歳)の時からエースとして活躍すると、高校2年生(17歳)の時にはキャプテンとして野球部を牽引します。

(ただ、この年は、甲子園には出場はできませんでした)

高校3年生の時に夏の甲子園大会で通算83奪三振を記録していた

そして、板東英二さんは、1958年、高校3年生の時には、ついに、夏の甲子園大会に出場すると、なんと、決勝まで全6戦を一人で投げ、1試合25奪三振、大会通算83奪三振という不滅の記録を記録を打ち立てています。

(この記録は、2024年現在、いまだに破られていません。)

板東英二

高校卒業後は慶應義塾大学に進学予定も貧しい家計を支えるために中日ドラゴンズに入団

こうして、一躍、脚光を浴びた板東英二さんは、マスコミが宿舎に殺到するほどの人気者となったそうですが・・・

もともと、小学校の先生になることが夢だったため、夏の甲子園大会での通算83奪三振記録については、特別な思い入れはなく、ましてや、野球を職業にしようとは思っていなかったそうです。

実際、1958年秋には、慶應義塾大学のセレクションに合格し、大学に進学する予定でいたそうです。

ただ、最終的には、貧しい家計を支えるため、大学進学を断念し、中日ドラゴンズに入団することを決意したのだそうです。

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板東英二は20代で現役を引退していた

24歳の時にはリリーフで活躍

そして、高校卒業後の1959年、中日ドラゴンズに入団すると、プロ入り1年目の1960年は4勝、2年目の1961年は10勝、3年目の1962年には12勝と、2年連続二桁勝利を記録するのですが、高校時代の登板過多の影響からか、4年目からは成績が下降。

それでも、1964年、24歳の時には、リリーフ専門投手として復活すると、再び頭角を現します。

板東英二

29歳で現役を引退

しかし、その後は、高校時代の登板過多のせいか、故障が相次ぎ、1969年、29歳の時に現役を引退しています。

板東英二

ちなみに、板東英二さんは、中日ドラゴンズに入団した直後の19歳の時、オープン戦の打席で、南海ホークスの杉浦忠投手のボールを見て、自分がプロで活躍するのは絶対に無理だと自らの限界を感じたそうで、副業に力を注ぐようになっていたといいます。

「板東英二の若い頃(解説者・タレント時代)から現在までの経歴を時系列まとめ!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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