1956年、NHKドラマ「この瞳」で女優デビューすると、清純派女優として活躍するも、1970年には、一転、「細うで繁盛期」で主人公をいじめる意地悪な小姑役を演じてブレイクし、以降、意地悪な役など憎まれ役を数多く演じた、冨士眞奈美(ふじ まなみ)さん。

そんな冨士眞奈美さんは、幼い頃は、選挙速報を聴くことと読書が好きな少女だったそうですが、中学2年生の時に初めてオペラを聴いて衝撃を受けると、高校生の時には、自分でも夢中でオペラの練習をするようになったそうで、

高校3年生の時には、「アンネの日記」を読んで感銘を受け、「劇団 民藝」が公募したアンネ役のオーディションを受けたそうですが不合格。

そこで、高校卒業後は、ミニコミ誌を発行していたお父さんの友達の助言により、新聞記者を目指して、修行すると、文章を書く楽しさを覚えたそうですが・・・

そんな中、NHKから、テレビドラマの主役のオーディションを知らせる一枚のハガキを受け取ったといいます。

今回は、冨士眞奈美さんの、生い立ち(幼少期から女優デビューまで)をご紹介します。

冨士眞奈美

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冨士眞奈美のプロフィール

冨士眞奈美さんは、1938年1月15日生まれ、
静岡県三島市の出身、
(6歳まで東京で育ち、7歳から18歳まで三島市で過ごしたそうです)

身長154センチ、

血液型はA型、

学歴は、
⇒静岡県立三島北高等学校卒業

趣味は、
相撲・野球観戦(スポーツ全般)、イタリアオペラ鑑賞、俳句(俳号は衾去(きんきょ))、

ちなみに、本名は、「岩崎 眞奈美」というそうですが、当時は「眞奈美」という名前は珍しかったそうで、新聞記者だったお父さんが、好きだった万葉集の短歌からとったのだそうです。

冨士眞奈美が幼い頃はラジオで選挙速報を聴くのが好きだった

冨士眞奈美さんは、新聞記者のお父さんのもと、6人きょうだいの3番目(三女)として、伊豆半島の三島と沼津の間にある清水村(現・清水町)で誕生すると、

選挙の応援活動に熱心だった両親の影響で、幼い頃からラジオの速報番組を聞くのが好きだったそうです。

冨士眞奈美が幼い頃はお転婆ながら文学少女だった

また、冨士眞奈美さんは、ラジオ同様、新聞記者だったお父さんの影響で、幼い頃から本を読むことが好きで、お年玉やお小遣いをもらうと本を買っていた文学少女だったそうですが、

晴れた日には、男の子たちと、野球、ビー玉、めんこをして遊んだり、崖から飛び降りて、誰が一番高いところから飛び降りれたかを競うスリルのある遊びが好きな、お転婆(てんば)な女の子だったそうです。

冨士眞奈美は幼い頃から母親に自立を促されて育てられていた

そんな冨士眞奈美さんには、すぐ下に弟さんがいるのですが、この弟さんは両親にとって待望の男の子(長男)だったことから、両親の愛情は一気にこの弟に注がれたそうです。

とはいえ、お父さんは、他の子どもたちにも愛情深く接してくれたそうですが、

お母さんには、いつも、

自分のことは自分でしなさい

と、言われ、自立を促されていたそうで、

冨士眞奈美さんは、物心ついた時から、

いずれ何か仕事を見つけて家を出なければいけない

と、思うようになっていたのだそうです。

(この時は、まだ、女優になるとは思っていなかったそうです)

冨士眞奈美は中学2年生の時に授業で初めてオペラを聴き魅了されていた

冨士眞奈美さんは、中学2年生の時、授業中に、東京から来た音楽の先生に蓄音機(ちくおんき)でオペラを聴かせられたそうですが、

音楽といえば、それまでは、NHKのラジオ歌謡曲しか聴いたことがなかったという冨士眞奈美さんは、たちまち、オペラに魅了されたそうです。

冨士眞奈美は高校生の時にオペラを夢中で練習していた

そんな冨士眞奈美さんは、高校進学後は音楽部に入部したそうで、音楽の先生からオペラのアリア「蝶々夫人」や「椿姫」の譜面を貸してもらうと、

その譜面を見ながら、自分なりに工夫して理解し、一生懸命覚えて、家の裏の畑で練習し、文化祭の舞台でオペラを披露したのだそうです。

(その音楽の先生は、芸術大学出身のソプラノ専科出身で、オペラが好きな冨士眞奈美さんをとてもかわいがってくれたそうです)

冨士眞奈美は高校3年生の時に「アンネの日記」のオーディションを受けるも不合格だった

その後、冨士眞奈美さんは、高校3年生の時には、「アンネの日記」を読み、とても感動したそうですが、ちょうど、その頃、朝日新聞で、「劇団民藝」が「アンネの日記」を公演するにあたり、主人公・アンネ役を募集している記事を見つけたそうで、

冨士眞奈美さんは、お芝居に関しては何も知らなかったそうですが、子どもの頃から体が弱く、ガリガリに痩せていたため、アンネ役ならできるかもしれない、とお姉さんに相談すると、

お姉さんが、「劇団民藝」に冨士眞奈美さんの書類を応募してくれ、「アンネの日記」のオーディションを受けることになったそうです。

すると、冨士眞奈美さんは、最後の6人まで残ったそうですが・・・

残念ながら、最終オーディションで、アンネ役を射止めることはできなかったのだそうです。

冨士眞奈美は高校卒業後は新聞記者を目指していた

そんな冨士眞奈美さんは、それから半年後に高校を卒業すると、ミニコミ誌を東京・藤沢で出版していたお父さんの友人の助言により、新聞記者を目指すことにしたそうで、

そのお父さんの友人の家に住み込み、朝5時から、ご飯を炊いたり、お味噌汁を作ったりすることを教わりつつ、原稿の書き方なども教わったのだそうです。

冨士眞奈美は新聞記者を目指している時にNHKからオーディションのハガキを受け取っていた

こうして、ミニコミ誌に携わり、文章を書く楽しさを覚えた冨士眞奈美さんは、すっかり、自分は物書きになるものだと思っていたそうですが・・・

そんな中、NHKから、当時、大ヒットしていた劇作家・内村直也さんの連続ラジオ劇「えり子とともに」のテレビ版を制作するにあたり、主人公(新人)のオーディションのお知らせのハガキを受け取ったのだそうです。

というのも、冨士眞奈美さんが、「アンネの日記」のオーディションを受けた際、「劇団民藝」の方が、印象に残ったからと、冨士眞奈美さんをNHKに推薦してくれていたというのです。

冨士眞奈美は18歳の時にNHKドラマ「この瞳」のオーディションで劇作家の内村直也に気に入られ主役に抜擢されていた

そんな冨士眞奈美さんは、カメラテストを受けることになり、その時、セリフを言わされたそうですが、

冨士眞奈美さんは、プロフィール欄に「趣味/オペラ」と書いていたことから、それに目を留めた審査員で劇作家の内村直也さんに、オペラを歌うように言われたそうで、

冨士眞奈美さんは、(演技経験が全くなかったことから)やけっぱちで、「蝶々夫人」の「ある晴れた日に」を原語で歌ったそうですが・・・

これが、内村直也さんに大変気に入られたそうで、内村直也さんは、NHKの偉い人達の反対を押し切って、冨士眞奈美さんをこのドラマの主役に抜擢してくれたのだそうです。

冨士眞奈美は18歳の時にNHKドラマ「この瞳」の主演で女優デビュー

ただ、冨士眞奈美さんは、それまで、演技経験がなく、”本読み”と言われても何のことか分からず、どうしたらいいか途方に暮れていたそうで、

そんな中、最初にハガキをくれたNHKの職員の方が、新婚にもかかわらず、自分の家に泊めてくれ、セリフの言い方、作法などを教えてくれたそうで、

1956年、18歳の時に、無事、NHKドラマ「この瞳」の主演で女優デビューを果たしたのだそうです。

(とはいえ、当時、ドラマはすべて生放送だったそうで、冨士眞奈美さんは、本番中、眠たくなって寝てしまったり、寝ぼけてセリフを5ページも読み飛ばしてしまったこともあったそうです)

「この瞳」
「この瞳」より。右から2人目が冨士眞奈美さん。左端は大山のぶ代さん。

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冨士眞奈美は18歳の時、大山のぶ代と六畳一間の下宿でルームシェアしていた

また、冨士眞奈美さんは、このドラマ「この瞳」で、「俳優座」の研究生だった大山のぶ代さんと知り合うと、大山のぶ代さんに誘われ、大山のぶ代さんの六畳一間の下宿でルームシェアをするようになったのだそうです。

「【画像】冨士眞奈美の若い頃が美しい!デビューから現在までの経歴を時系列まとめ!」に続く

冨士眞奈美と大山のぶ代
冨士眞奈美さん(左)と大山のぶ代さん(右)。

お読みいただきありがとうございました

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