1956年、映画「火の鳥」で本格的に俳優デビューすると、以降、「人間の條件」「椿三十郎」「用心棒」「影武者」「乱」など、数多くの名作に主演するほか、「ハムレット」「四谷怪談」など多数の舞台にも出演し、映画と舞台の両輪でキャリアを重ねた、仲代達矢(なかだい たつや)さん。

そんな仲代達矢さんは、8歳の時にお父さんが他界し、小・中・高校時代は極貧生活を余儀なくされたそうで、高校卒業後は、友人に勧められ、生活のために俳優を目指したといいます。

今回は、仲代達矢さんの、生い立ち(幼少期から「俳優養成所」時代まで)をご紹介します。

仲代達矢

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仲代達矢のプロフィール

仲代達矢さんは、1932年12月13日生まれ、
東京府東京市目黒区五本木(現・東京都目黒区)の出身、

身長178センチ、

血液型はB型、

学歴は、
青南小学校
東京都立北豊島工業学校中退(空襲のため)
⇒東京都立重機工業学校卒業
⇒東京都立千歳高等学校定時制卒業

趣味は、
映画観賞、野球観戦、

ちなみに、本名は、仲代元久(なかだい もとひさ)です。

仲代達矢は8歳の時に父親が42歳の若さで他界していた

仲代達矢さんは、農家の出身で京成電鉄のバス運転手をしていたお父さんのもと、4人きょうだいの長男として誕生すると、

幼い頃に、お父さんの転勤で千葉県津田沼に移り住んだそうですが、1942年、仲代達矢さんが8歳の時に、お父さんは、結核のため、42歳の若さで他界されたそうです。

仲代達矢の小学校時代は極貧生活を余儀なくされていた

お父さんの死後、仲代達矢さんたち4人きょうだいは、お母さんに女手一つで育てられたそうですが、極貧生活を余儀なくされたそうで、

運動会にはお弁当が用意できないことから参加できず、遠足も参加料金を支払うことができず行くことができなかったそうです。

仲代達矢は小学校時代イジメられていた

そんな仲代達矢さんは、小学校時代は、内気で引っ込み思案だったうえ、小学校を何度も転校していたことからイジメに遭い、泣きながら家に帰ることもしょっちゅうだったそうです。

また、お母さんの仕事の都合で転居した際には、軍人や実業家など富裕層の多い「青南小学校」に転校したことから、極貧でお弁当のおかずも用意できなかった仲代達矢さんは、

教師から、

ここはお前らのような貧乏人が来る学校ではない

と、言われたこともあったそうです。

仲代達矢は10歳の時に疎開するも母親が面会に来てくれない寂しさから毎晩おねしょをしていた

そんな中、1941年に太平洋戦争が始まると、仲代達矢さんは、1943年、10歳の時には、学童集団疎開で、調布市仙川の寺に疎開したそうですが、お母さんは一度も面会に来てくれなかったそうで、

慣れない環境や、お母さんが会いに来てくれない寂しさから、毎晩、おねしょをするようになったそうです。

仲代達矢が12歳の時には母親が妾になり弟を出産していた

そんな仲代達矢さんですが、1945年4月、小学校を卒業し(12歳)、ようやく疎開先から青山の実家に戻ってくると、そこには、知らない赤ん坊がいたといいます。

実は、その赤ん坊は仲代達矢さんの弟で、お母さんは、仲代達矢さんが疎開中、住み込み先の弁護士の妾(めかけ)となり、仲代達矢さんの弟を出産していたのでした。

仲代達矢は12歳の時に空襲で悲惨な体験をしていた

その後、その弁護士は、仲代達矢さん母子のために、渋谷に家を借りてくれたそうで、一家で転居したそうですが・・・

仲代達矢さんは、小学校を卒業した直後の1945年5月25日、渋谷から友達の家に行こうと青山へ行くと、突如、空襲(山の手空襲)が始まり、悲惨な体験をしたといいます。

(その後、日本は太平洋戦争に敗戦するのですが、それまでずっと、「国のために死ね」と言っていた大人たちが、急に、平気で親米になり、仲代達矢さんは、大人たちに不信感を抱くようになったそうです)

仲代達矢は高校卒業後は生活のために俳優を目指すようになっていた

ちなみに、終戦直後、仲代達矢さんは、まだ、中学生だったそうですが、様々なアルバイトを掛け持ちし、中学卒業後は、定時制高校に通ったそうです。

そして、高校卒業後は、学歴が関係ない仕事を探していたそうですが、

そんな中、夜間高校の友人に、

お前は顔がいいからから役者になれよ

と、俳優になることを勧められたそうで、

仲代達矢さんは、その時は聞き流していたそうですが、やがて、食べていくためには、何か職に就かなければならないと考え、どうすれば俳優になれるのか考え始めたのだそうです。

仲代達矢は19歳の時に「俳優座」に第4期生として入所

そして、映画のパンフレットに掲載されている外国の俳優のプロフィールを読んでいるうち、みんな、大学の演劇科や演劇学校を出ていることに気づいたそうで、

3年間で演技の基礎を教えてくれるという「俳優座」の養成所の存在を知り、受験すると、約20倍の競争率を突破し、見事、合格。

こうして、仲代達矢さんは、1952年、19歳の時、「俳優座」の養成所に第4期生として入所したのだそうです。

(仲代達矢さんは、終戦後、解禁となった洋画をはじめとする映画を観ることが大好きだったそうです)

仲代達矢は21歳の時からオーディションを受け始めるも落ちてばかりだった

仲代達矢さんは、「俳優座」養成所に入所後は、夜はバーで働きながら、役者修行に励む日々を送り、3年生になると、映画のオーディションを受け始めたそうですが、

当時は、さわやか系が全盛の時代で、薄汚れて目をギラギラさせていた仲代達矢さんは、落ちてばかりいたそうです。

「俳優座」養成所の仲代達矢
「俳優座」養成所の時代の仲代達矢さん(右から2番目)

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仲代達矢は21歳の時に黒澤明監督の「七人の侍」にエキストラで出演するも歩き方を何度もダメ出しされていた

そんな中、1954年、21歳の時、黒澤明監督の「七人の侍」のオーディションに、初めて合格したそうですが・・・

仲代達矢さんは、街中を通り過ぎていくセリフのない浪人役で、わずか数秒間、歩くだけという役だったにもかかわらず、黒澤明監督からは何度もダメ出しされたそうで、

なんと、ワンカットに、午前9時から午後3時まで、ぶっ通しで何度もやり直しをさせられたのだそうです。

(最終的にはOKとなったそうですが、仲代達矢さんは、この時の屈辱が忘れられず、いつか必ず立派な役者になって、黒澤組の映画には絶対に出ないことを心に誓ったのだそうです)

「七人の侍」の仲代達矢
「七人の侍」より。仲代達矢さんが歩くシーン。

「【画像】仲代達矢の若い頃は?デビューから現在までの経歴を時系列まとめ!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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