「ろくでなし」「血は渇いてる」「甘い夜の果て」「秋津温泉」「嵐を呼ぶ十八人」などの作品を発表すると、”松竹ヌーベルヴァーグの旗手”と称された、吉田喜重(よしだ よししげ)さん。

今回は、そんな吉田喜重さんの若い頃から現在までの活躍や経歴を、デビューから時系列でまとめてみました。

吉田喜重

「吉田喜重の生い立ちは?東京大学では文学志望も父親が失明し松竹に入社していた!」からの続き

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吉田喜重は20代の時に「ろくでなし」で映画監督デビューすると岡田茉莉子の「秋津温泉」では大ヒットを記録

26歳の時に「ろくでなし」で映画監督デビュー

1955年4月、22歳の時に、「松竹」に助監督として入社した吉田喜重さんは、木下恵介監督の助監督を経て、1960年、26歳の時には、金持ちの大学生とたかる貧乏学生たちの行き場のない鬱屈した青春を描いた「ろくでなし」で映画監督デビューすると、この作品は、若い世代に受け入れられ、”松竹ヌーヴェルバーグ”と称されます。

「ろくでなし」
「ろくでなし」より。

ちなみに、国民の娯楽が映画からテレビに移り変わろうとする時代において、吉田喜重さんは、テレビでも容易に製作できるメロドラマ、ホームドラマとは異なった映画、特に若い世代に共感を与えるような作品を作ることができる新人監督として、「松竹」に抜擢されたそうで、

吉田喜重さんは、オリジナルシナリオを執筆して「ろくでなし」を製作したのだそうです。

(1955年4月、当時の皇太子(明仁親王)が正田美智子さんとご婚約されているのですが、その式典を中継するテレビを見ようと、国民がこぞってテレビを購入し(その結果、テレビは100万台売れたそうです)、その煽りを受けて映画館に行く観客は激減したそうで、「松竹」はそれに危機感を抱いたのだそうです)

28~29歳の時に「血は渇いてる」「甘い夜の果て」を発表するも松竹により助監督に降格させられていた

そんな吉田喜重さんは、1960年には「血は渇いてる」、1961年には「甘い夜の果て」を発表すると、社会の矛盾をドライに描いた作風で、同じ「松竹」の大島渚監督や篠田正浩浩監督らとともに”松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手”として活躍するのですが・・・

その後、「松竹」の方針転換で助監督に降格させられてしまいます。

「甘い夜の果て」
「甘い夜の果て」より。津川雅彦さんと山上輝世さん。

29歳の時に「秋津温泉」で監督に復帰すると大ヒット

しかし、1962年、29歳の時、スター女優だった岡田茉莉子さんに直々に指名され、岡田茉莉子さんが(自身の映画100本記念として)企画・プロデュースした「秋津温泉」で監督に復帰すると、映画は大ヒットを記録。

「秋津温泉」
「秋津温泉」より。岡田茉莉子さんと長門裕之さん。

ちなみに、吉田喜重さんは、岡田茉莉子さんに「秋津温泉」の監督を依頼された際、最初は断ったそうですが、それでも食い下がる岡田茉莉子さんに、

私たちの世代には、敗戦は避けて通れない出来事です。主人公である男女の青春に、それがどのような影を落としたのか。それを描きたい

と、脚本を吉田喜重さん自身が担当することを条件に、このオファーを引き受けたのだそうです。

(「秋津温泉」は、藤原審爾の小説が原作で、戦後、秋津荘を舞台に、生きる希望を失い時代に流されゆく男と、変わらぬ真情を抱き裏切られる女を、時代から取り残される秋津荘の運命を背景に描いた作品)

吉田喜重が30代の時は「松竹」を退社し妻・岡田茉莉子と共に独立プロダクション「現代映画社」を設立

30歳の時に「嵐を呼ぶ十八人」を発表

そんな吉田喜重さんは、1963年、30歳の時には「嵐を呼ぶ十八人」を発表しています。

「嵐を呼ぶ十八人」
「嵐を呼ぶ十八人」より。香山美子さん。

31歳の時に「松竹」を退社

そして、1964年5月、31歳の時には、「日本脱出」をクランクインし、6月に編集を終えて完成させると、かねてより婚約中だった(1963年11月に婚約を発表)岡田茉莉子さんと西ドイツで結婚式を挙げるため、6月19日夜、ルフトハンザ・ドイツ航空に搭乗しています。

ただ、「日本脱出」は、吉田喜重さんに無断でラスト一巻がカットされて上映されていたそうで、新婚旅行から帰国後、それを知った吉田喜重さんが「松竹」に抗議するも、妥協点を見出すことはできなかったそうで、吉田喜重さんは「松竹」を退社しています。

「日本脱出」
「日本脱出」より。桑野みゆきさん。

ちなみに、吉田喜重さんは、新婚旅行でヨーロッパを回った際、16ミリカメラを回していたそうで、そのフィルムをTBSが買い上げ、吉田喜重さんが構成、妻の岡田茉莉子さんがナレーションを担当し、「ヨーロッパ昨日今日」として、30分番組全4回として放映されています。

(1964年8月23日に放映された第一回は「ローマは雨だった」というタイトルで、吉田喜重さん、岡田茉莉子さん共にどのフィルモグラフィにも載っていない貴重なテレビ作品となっているそうです)

32歳の時に日活映画「水で書かれた物語」を発表

松竹退社後、吉田喜重さんはフリーで活動し、1965年、32歳の時には、日活映画「水で書かれた物語」を発表しています。

「水で書かれた物語」
「水で書かれた物語」より。岡田茉莉子さん。

33歳の時に妻の岡田茉莉子と共に独立プロダクション「現代映画社」を設立

また、吉田喜重さんは、1966年、33歳の時には、妻の岡田茉莉子さんと共に、独立プロダクション「現代映画社」を設立すると、

以降、

  • 1966年(33歳)「女のみづうみ」
  • 1967年(34歳)「情炎」
  • 1967年(34歳)「炎と女」
  • 1968年(35歳)「樹氷のよろめき」
  • 1968年(35歳)「さらば夏の光」
  • 1969年(36歳)「エロス+虐殺 」
  • 1970年(37歳)「煉獄エロイカ」
  • 1971年(38歳)「告白的女優論」
  • 1973年(40歳)「戒厳令」

と、次々に作品を発表。

(「戒厳令」を除き、全て、岡田茉莉子さんが主演。「戒厳令」では岡田茉莉子さんはプロデューサーとして参加)

「エロス+虐殺」は、フランスで上映されたことから海外でも注目されたほか、同作は「煉獄エロイカ」「戒厳令」とともに「日本近代批判三部作」と呼ばれたのでした。

「エロス+虐殺」
「エロス+虐殺」より。岡田茉莉子さんと細川俊之さん。

吉田喜重が40代の時はテレビドキュメンタリー「美の美」を制作

そんな吉田喜重さんは、その後、映画界を離れると、40代の時には、「美の美」などのテレビドキュメンタリー番組を多く制作しています。

(1979年(46歳)から1982年(49歳)まではメキシコに滞在していたそうです)

吉田喜重は53歳の時に「人間の約束」で13年ぶりに映画監督として復帰

そして、1986年、53歳の時には、「人間の約束」で13年ぶりに映画監督として復帰すると、この作品は高く評価され、「サン・セバスティアン国際映画祭」で「銀の貝殻賞」を受賞しています。

また、1988年には、「嵐が丘」 を発表すると、自身初となる「カンヌ国際映画祭」のコンペティション部門への出品を果たし、一部の評論家から高い評価を受けたのでした。

「嵐が丘」
「嵐が丘」より。田中裕子さん。

吉田喜重の60代~70代の頃

吉田喜重さんは、2002年、69歳の時には、14年ぶりに「鏡の女たち」を発表すると、この作品は、「第55回カンヌ国際映画祭」で特別招待作品として上映されています。

また、2003年、70歳の時には「サンパウロ国際映画祭特別賞」を、妻の岡田茉莉子さんとともに受賞するほか、フランス政府より芸術文化勲章オフィシエ章を授与されています。

そんな吉田喜重さんは、1970年代より、放送文化基金賞において、テレビドキュメンタリー、テレビドラマ、エンターテイメント番組の審査員を務めてきたのですが、2005年~2017年(72歳~84歳)には、ドキュメンタリー部門の審査委員長を務めています。

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吉田喜重の80代の頃

87歳の時に歴史長編小説「贖罪 ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争」を発表

吉田喜重さんは、2020年、87歳の時には、10年以上にわたって執筆してきた歴史長編小説「贖罪 ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争」を発表しているのですが、

これは、吉田喜重さんが、“人生最後の天職”として、自身とナチス副総統ルドルフ・ヘスの生涯を虚実入り混ぜて小説化した作品となっています。

「贖罪 ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争」
「贖罪 ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争」より。

89歳で死去

そんな吉田喜重さんも、2022年12月8日、肺炎により、89歳で他界されています。

ちなみに、妻の岡田茉莉子さんによると、吉田喜重さんは、死去する前日まで元気だったそうで、本当に眠るように穏やかに息を引き取ったといいます。

「吉田喜重の妻・岡田茉莉子との馴れ初めは?結婚後の夫婦仲は?子供は?」に続く

お読みいただきありがとうございました

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