1948年に結婚するも、1960年頃には家を飛び出し、女優の宮城まり子さんと同棲生活を始めたという、吉行淳之介(よしゆき じゅんのすけ)さんですが、
妻が離婚を拒否し続けたため、その関係は、吉行淳之介さんが他界するまでの35年間という長きに渡り、事実婚状態だったといいます。
今回は、そんな吉行淳之介さんの、宮城まり子さんとの馴れ初め、同棲に至るまでの経緯、同棲後の関係、全著作権を贈与(遺贈)すると記された遺言書、子供についてご紹介します。
「吉行淳之介は妻と離婚できず不倫相手と生涯に渡って連れ添っていた!」からの続き
吉行淳之介と宮城まり子の馴れ初めは?
吉行淳之介さんは、1957年、32歳の時、女優の宮城まり子さん(30歳)と、雑誌の鼎談(ていだん)の席で知り合うと、
しばらくして、吉行淳之介さんが、宮城まり子さんに、
今、病気で入院しているから、見舞いに来てくれ
と、手紙を書いたそうで、
宮城まり子さんが病院に見舞いに行ったことがきっかけとなり、交際をスタートさせたそうです。
ちなみに、吉行淳之介さんは、宮城まり子さんについて、
三十五年に私は家庭を捨て、以来この女と一緒に暮している。この女は、女性という種族の特徴(可憐さ、やさしさ、馬鹿、嫉妬心、吝嗇、勘の良さ、逞しさ、非論理性、塩をつくこと⦅新潮文庫の原文ママ⦆)、すべての発想が自分を中心にして出てくること、などなど)を、すべて極端なまでに備えていた。
と、語っています。
吉行淳之介さんと宮城まり子さん。
吉行淳之介の妻が離婚に応じず宮城まり子は三角関係に苦しんでいた
ただ、この時、吉行淳之介さんにはすでに妻子がおり、吉行淳之介さんは妻に離婚を切り出したそうですが、妻が応じなかったため、
宮城まり子さんからは、
私が必要?(奥さんと)どっちが必要?
などと、何度も迫られたそうで、
宮城まり子さんは、この三角関係にとても悩んでいたといいます。
(ちなみに、宮城まり子さんは、出会った時から、吉行淳之介さんには奥さんがいると知っていたそうですが、本気で自分を愛してくれるなら、いつか必ず(吉行淳之介さんの)妻になれると思っていたのだそうです)
吉行淳之介は妻が離婚に応じないまま宮城まり子と同棲生活を始めていた
そして、ついには、このような三角関係に嫌気が差した宮城まり子さんは、吉行淳之介さんとの別離を決意し、一人、ヨーロッパへと旅立ったそうで、
吉行淳之介さんが、再三、帰ってくるように手紙を書き送ると、ようやく、宮城まり子さんは帰国したそうで、吉行淳之介さんは、家を出て、宮城まり子さんの家で同棲生活を始めたのだそうです。(1960年頃)
(宮城まり子さんは、パリに滞在中、最愛の弟の訃報に接し、泣き暮らしていたところ、吉行淳之介さんからの手紙を受取り、帰国を決意したのだそうです)
吉行淳之介と宮城まり子の同棲生活は良好だった
そんな2人の同棲生活はうまくいっていたようで、複雑な家庭環境で育った吉行淳之介さんは、子供の頃から、子供らしい振る舞いをせず、冷めた目で大人たちを見ているようなところがあったそうですが、
宮城まり子さんの前では、安心して、子供のように(好き勝手な要求をするなど)自由に振る舞うことができたと言われています。
ちなみに、吉行淳之介さんは、70歳で肝臓ガンにより他界されているのですが、宮城まり子さんは、最後の2ヶ月間、医師や看護師も驚くほど献身的に看病していたそうで、
吉行淳之介さんの最後の言葉は、
まりちゃん
だったといいます。
吉行淳之介は宮城まり子のために遺言書を作成していた
また、吉行淳之介さんは、事実上の妻だった宮城まり子さんに財産を遺すため、遺言書を作成していたそうで、週刊誌に掲載されたものによると、
遺言書
遺言者吉行淳之介は、この遺言書によって、左の遺言をする。
一、遺言者の有する全著作権の貳分の壹(注:1/2)の持ち分を、東京都世田谷区上野毛本目眞理子(注:宮城まり子の本名)に贈与する。
一、葬式は、本目眞理子を喪主として、右上野毛の同人の家で、無宗教で行うこと。入口で会葬者に花を渡し、会葬者がその花を遺言者の写真の前に置くようにすること。
一、東京都千代田区大島重夫を遺言執行者に指定する。
右遺言のため、遺言者みずからこの証書の全文を書き、日附および氏名を自書し、判を押した 。
昭和44年12月8日
東京都世田谷区上野毛
遺言者 吉行淳之介 印
といったもので、
吉行淳之介さんは、自身の全著作権の2分の1を宮城まり子さんに贈与(遺贈)し(残りの2分の1は法律上の妻子が相続)、葬式の喪主には、宮城まり子さんを指定しています。
(もし遺言書を書かずに吉行淳之介さんが亡くなった場合、法定相続人ではない宮城まり子さんは相続できないため、それでは自分の思いに異なるとし、吉行淳之介さんは、遺言書を作成したのだと思われます。また、法定相続人以外の人に財産を受け渡すことは、「相続」ではなく「贈与(遺贈)」と呼ばれています)
吉行淳之介は宮城まり子に全著作権を贈与(遺贈)していた?
一方、吉行淳之介さんの遺言書の実物を見たことがあるという作家の瀬戸内寂聴さんは、
遺言書について、
いつも使用の原稿用紙一枚に、御本人の達筆の万年筆の字で、のびのび書いてありました。すべての動産、不動産は夫人に。文筆の権利は、すべて宮城まり子さんに。というものでした。それをこっそり見せてくれたまり子ちゃんの満足そうな笑顔を忘れられません。
と、語っており、
週刊誌の記事にある、
全著作権の1/2を宮城まり子に
とは異なっています。
実物が公開されていないため、真相は不明ですが、
それをこっそり見せてくれたまり子ちゃんの満足そうな笑顔を忘れられません。
とのことで、いずれにしても、宮城まり子さんにとっては、満足の行く形に収まったことが分かります。
吉行淳之介と宮城まり子の間に子供はいない
ちなみに、吉行淳之介さんと宮城まり子さんの間に子供はいません。
ただ、宮城まり子さんによると、1968年、肢体不自由児療護施設「ねむの木学園」を設立した際、誰よりも応援してくれたのが、吉行淳之介さんだったそうで、
吉行淳之介さんは、この施設を「ねむの木学園」と名付けてくれ、さらに、学園の理事も引き受けてくれたそうで、宮城まり子さんは、この「ねむの木学園」で育った子供たちが吉行淳之介さんとの子供だと思っているといいます。
東京大学英文科中退後、編集者を経て、同人誌「葦」「世代」「新思潮」などに参加すると、安岡章太郎さん、遠藤周作さんらとともに”第三の新人”として活躍し、1954年には、「驟雨」で芥川賞を受賞した、吉 …