説明不能なギャグに独特のズーズー弁で国民的な人気を博した喜劇役者の、由利徹(ゆり とおる)さん。
そんな由利徹さんには、あの志村けんさんも高校生の時に弟子入りを志願していたといいます。
今回は、志村けんさんが由利徹さんに憧れて弟子入りを志願した経緯、由利徹さんと志村けんさんの芸の共通点などについてご紹介します。
「由利徹は傷害で逮捕されていた!居酒屋で数十回も医師を殴った理由とは?」からの続き
由利徹と志村けんの芸の共通点
由利徹さんと志村けんさんの間に師弟関係はありませんが、志村けんさんは、少年時代、由利徹さんに尊敬の念と憧れを抱いて、喜劇役者を目指していたそうで、
その影響からか、2人は喜劇役者としての芸や姿勢がとても良く似ており、
- 東北弁を使った笑い
- 体の動きを使った笑い
- 体を使った動きを得意としていたため舞台を中心に活動していた
- 素が苦手のためヅラをつけたり化粧をしていた
- 晩年は人情喜劇を演じていた
などの共通点があります。
また、志村けんさんは、「志村けんのだいじょうぶだぁ」内のコント「ご存知!じいさんばあさん」の中で、由利徹さんが得意とする「裁縫のパントマイム」を由利徹さんへのオマージュとして演じています。
志村けんが由利徹に憧れた理由とは?
ちなみに、志村けんさんは、お父さんの憲司さんが小学校の教頭先生をしており、寡黙(かもく)で厳しく、ご飯を食べたらすぐに書斎に入ってしまうような人だったことから、とにかく家の中の雰囲気が暗くて一切笑いがなく、楽しくなかったそうですが、
由利徹さんら喜劇人が出演する舞台「雲の上団五郎一座」の中継や、クレイジー・キャッツ、エノケン(榎本健一)さん、柳家金語楼さんらをテレビで観ている時だけは、家族が一緒に和み、普段は寡黙で厳しいお父さんも笑顔を見せていたそうで、
志村けんさんは、
このオヤジが笑うのか。この人たちってすごい
と、由利徹さんに大きな憧れを抱き、お笑いの道を目指したのだそうです。
「雲の上団五郎一座」の由利徹さん。
(「雲の上団五郎一座」とは、1960年、東京宝塚劇場の東宝ミュージカルで初演されたお芝居のことを言い、貧乏な旅回りの一座が劇中劇で歌舞伎の演目など著名な芝居を演じて爆発的な人気を博したそうで、このヒットを受け、1961年に「続」、1962年に「吉例雲の上団五郎一座・御手本忠臣蔵」とシリーズ化され、何度かテレビでも放送されたそうです。ちなみに由利徹さんは、1977年に日本劇場で行われた「雲の上団五郎一座」の公演で座長に就任し、以降1979年末まで、4回に渡って座長を務めたそうです)
由利徹は志村けんから弟子入り志願されるも断っていた
そんな志村けんさんは、高校2年生の時、担任の先生に、
ぼくは進学しないで、お笑いの世界に行きます。でも、何もつてはありません
と言うと、
先生がとても遠い知り合いで喜劇役者の由利徹さんを知っているからと紹介状を書いてくれたそうで、志村けんさんは、すぐに由利徹さんの家を探しに行き、弟子入りを志願したといいます。
ただ、由利徹さんには、すでに4人の弟子がおり、断られてしまったそうで、
(由利徹さんの家には、弟子が2人と、家の手伝いなどをする内弟子が2人いたそうで、志村けんさんは、その下につくのも嫌だなと思っていたそうです)
志村けんさんが、大学に行ったほうがいいか聞くと、
由利徹さんには、
4年間で気が変わっちゃうよ。大学なんて必要ねえ
と、言われたそうで、
その後、志村けんさんは、高校3年生になった時、誰に弟子入りしようかと考えた末、「ザ・ドリフターズ」のいかりや長介さんに弟子入りしたのだそうです。
1942年、21歳の時、軽演劇場「ムーランルージュ新宿座」に入団して初舞台を踏むと、1951年、30歳の時には、ストリップ劇場で寸劇をやる俳優となり、その後、お笑いユニット「脱線トリオ」を結成すると、たちまちブレイクした …