1979年、「風の歌を聴け」で「群像新人文学賞」を受賞し作家デビューすると、以降、「羊をめぐる冒険」「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」などを次々と発表し、1987年に発表した「ノルウェイの森」が上下巻430万部を売り上げるベストセラーとなり、たちまち、一大ブームを巻き起こした、村上春樹(むらかみ はるき)さん。

そんな村上春樹さんは、小学4年生の頃から本をよく読むようになり、中学生の時には、ロシア文学を愛読していたそうですが、大学生の時には、映画の脚本家に憧れてシナリオを書き始めるも、すぐに断念していたといいます。

そして、大学在学中には、ジャズ喫茶をオープンしたそうですが、29歳の時、明治神宮野球場でプロ野球開幕戦のヤクルト対広島戦を観戦中、ふと小説を書くことを思い立ち、ジャズ喫茶を経営するかたわら、毎晩、キッチンテーブルで小説を書き続けたといいます。

今回は、村上春樹さんの、幼少期(生い立ち)から作家デビューまでを時系列でご紹介します。

村上春樹

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村上春樹のプロフィール

村上春樹さんは、1949年1月12日生まれ、
京都府京都市伏見区生まれ(兵庫県西宮市・芦屋市育ち)、

血液型はA型、

学歴は、
西宮市立香櫨園小学校
⇒芦屋市立精道中学校
⇒兵庫県立神戸高校
⇒早稲田大学第一文学部演劇学科卒業

趣味は、マラソン、野球観戦、ジャズレコードの収集、映画鑑賞、

ちなみに、「村上春樹」は本名です。

村上春樹が幼い頃は父親にかわいがられて育てられていた

村上春樹さんは、高校の国語教師だった両親のもと、一人っ子として、京都府京都市伏見区に誕生したそうですが、

物心がついた頃、お父さんの村上千秋さんが甲陽学院中学校に赴任したため、兵庫県西宮市の夙川に転居したそうです。

また、村上春樹さんは、幼い頃、お父さんに、頻繁にキャッチボールをしてもらったり、甲子園球場に連れて行ってもらったり、西部劇などの映画も観に連れて行ってもらうなど、とてもかわいがられて育てられたそうです。

村上春樹の父親は朝食前に戦死した仲間のためにお経を唱えていた

ちなみに、お父さんは、京都の寺に次男として誕生すると、西山仏教専門学校に入学した20才の時に徴兵され、中国での戦いに参加した後、23歳の時に兵役解除となり、帰国したそうですが、

その後も、2度の招集を受けたそうで、奇跡的に3度の戦火をくぐり抜け、美幸さん(村上春樹さんのお母さん)と結婚し、村上春樹さんが誕生したそうで、

お父さんは、この戦争体験がトラウマとなり、朝食の前に、必ず、背筋を伸ばして目を閉じ、木彫りの菩薩に向かって、戦死した仲間たちや殺害された中国の人たちのために、長い間、お経を唱えていたそうで、

村上春樹さんは、そんなお父さんの姿が今でも忘れられないそうです。

村上春樹は小学4年生の時から急に本を読むようになっていた

さておき、村上春樹さんは、小学4年生頃から急に本を読むようになったそうで、

ジュール・ヴェルヌ、デュマ、アーサー・コナン・ドイル(「シャーロック・ホームズ」シリーズ)、モーリス・ルブラン(「アルセーヌ・ルパン」シリーズ)など、図書館に通い、手当たり次第に読んだそうです。

村上春樹は中学1年生の時に「戦争と平和」「カラマーゾフの兄弟」などのロシア文学にハマっていた

そして、1961年、中学1年生の時、スタンダールの「赤と黒」を読んで感銘を受けると、このことがきっかけとなり、19世紀の文学にハマったそうで、

特に、「戦争と平和」(トルストイ)「カラマーゾフの兄弟」(ドストエフスキー)などのロシア文学は、体に染み付くほど何度も読み返したのだそうです。

(日本の小説を読むようになったのは大学進学後で、夏目漱石や谷崎潤一郎など、文章の上手な作家の作品を愛読したそうです)

村上春樹が14歳の時にはジャズやビーチ・ボーイズに熱中していた

その一方で、1963年1月、14歳の時には、神戸でアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズのライブを観てジャズに熱中するようになったほか、

ソニーのトランジスタ・ラジオから流れてきたビーチ・ボーイズの「サーフィンUSA」を初めて聴き、衝撃を受けたそうです。

村上春樹が高校2年生の時には辞書を片手にアメリカの小説を読みふけっていた

そんな村上春樹さんは、1964年、高校進学後は新聞部に入部したそうで、

1965年、高校2年生の時には、編集長に就任し、辞書を片手に、ロス・マクドナルド、カート・ヴォネガット、エド・マクベイン、レイモンド・チャンドラーなどのアメリカの小説を読みふけるようになったそうです。

村上春樹が大学生の時はシナリオライター(脚本家)になりたいと思っていた

そして、高校卒業後は、1年浪人生活を送った後、1968年、早稲田大学第一文学部演劇学科に入学したそうですが、

大学在学中は、映画のシナリオライター(脚本家)になりたいと思い、シナリオ研究会に入会すると、シナリオ(脚本)を執筆していたそうですが、短期間でやめたそうです。

その後は、大学の演劇博物館で映画のシナリオを読みふけりつつ、年間200本以上もの映画を観る生活を送っていたのだそうです。

村上春樹は25歳頃に国分寺にジャズ喫茶「ピーター・キャット」を開店していた

その後、村上春樹さんは、1971年、22歳の時には、早稲田大学の友人の髙橋陽子さんと学生結婚をすると、1972年頃から、昼はレコード屋、夜は喫茶店でアルバイトをし、陽子さんと二人で2年間で250万円を貯金したそうで、

更に、両方の親と銀行から250万円を借り、国分寺に念願のジャズ喫茶「ピーター・キャット」をオープンしたのだそうです。

(ただ、1977年に、ビルの持ち主から立ち退くように言われ、「ピーター・キャット」は千駄ヶ谷に移転したそうです)

村上春樹は29歳の時にヤクルト対広島を観戦中に急に小説を書こうと思い立っていた

そんな中、村上春樹さんは、1978年4月1日午後1時半頃、プロ野球開幕戦のヤクルト対広島戦を、明治神宮野球場の外野席の芝生に寝そべり、ビールを飲みながら観戦していたそうですが、

先頭バッターのデイブ・ヒルトン選手がレフト線にヒットを放ち、二塁へ到達したその瞬間、

そうだ、小説を書いてみよう(才能や能力があるなしにかかわらず、とにかく自分のために何かを書いてみよう)

と、思い立ったそうで、

すぐに、新宿の紀伊國屋に行き、安物の万年筆と原稿用紙を購入して小説を書き始めると、以降、ジャズ喫茶を経営するかたわら、毎晩、ジャズ喫茶の仕事が終わった後の真夜中に小説を書き続け、1時間ずつ4ヶ月間かけて「風の歌を聴け」を完成させたのだそうです。

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村上春樹は30歳の時に「風の歌を聴け」で作家デビュー

すると、村上春樹さんは、1979年4月、30歳の時、「群像」に応募した「風の歌を聴け」が「第22回群像新人文学賞」を受賞し、「群像」(1979年6月号)に掲載されて作家デビューを果たすと、

「風の歌を聴け」
「風の歌を聴け」

翌年の1981年、32歳の時に発表した、本格長編小説「羊をめぐる冒険」は「第4回野間文芸新人賞」を受賞。

「羊をめぐる冒険」
「羊をめぐる冒険」

1985年、36歳の時に発表した、長編「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」は「第21回谷崎潤一郎賞」を受賞するなど、作家としてのキャリアを順調に重ねて行ったのでした。

「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」
「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」

ちなみに、村上春樹さんは、「時事ドットコム」のインタビューで、

最初の長編2作(「羊をめぐる冒険」と「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」)は、ジャズの店をやっていて、仕事が終わってから時間を見つけて書いていた。

まとまった物語を書く余裕はなく、小説を書く訓練を全くしていなかったので、書き方が分からなくて。しばらくして店をやめて1日好きなだけ時間を使って書いた。思いつくままに書いていく中で「物語」を書ける喜びにつながり、「僕は向いているんだ」と思うようになりました。

「羊をめぐる冒険」と「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」は、ただただ楽しんで書いた。

と、語っています。

お読みいただきありがとうございました

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