“世界のクロサワ”と称された映画監督の黒澤明さんの息子として誕生すると、日本のエンターテインメント界において多才な才能を発揮し、音楽、テレビ、映画プロデュースと、多方面で活動してきた、黒澤久雄(くろさわ ひさお)さん。

そんな黒澤久雄さんは、幼い頃から映画関係者が出入りする賑やかな環境で育ったそうで、高校時代から音楽活動を始め、1964年、大学在学中に、バンド「ザ・ブロードサイド・スリー(後に「ザ・ブロード・サイド・フォー」)」を結成すると、1966年にリリースしたファーストシングル「若者たち」が大ヒットを記録しています。

今回は、黒澤久雄さんの、幼少期(生い立ち)から大学時代までをご紹介します。

黒澤久雄

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黒澤久雄の父親は黒澤明、母親は矢口陽子

黒澤久雄さんは、

「黒澤久雄」は本名で、
お父さんは、「世界のクロサワ」こと、映画監督の黒澤明さん、
お母さんは、元女優の矢口陽子さん、
妹は、デザイナーの黒澤和子さん、

という、芸能一家です。

また、黒澤久雄さんの愛称は、「クロパン」だそうですが、その由来は、小学生の頃にブリーフをはいていたからだそうで、「黒澤の女パンツ」から来ているのだそうです。

黒澤久雄が幼い頃は映画関係者に囲まれた環境で育っていた

黒澤久雄さんは、お父さんの黒澤明さんとお母さんの矢口陽子さんのもと誕生すると、

幼い頃は、映画界で働く両親の影響で、家に映画関係者が頻繁に出入りする、賑やかな環境で育ったそうです。

ちなみに、お父さんの黒澤明さんは、仕事には非常に厳しい人だったそうですが、家庭では、子どものように素直で、映画のことしか考えていない人だったと言われています。

一方、お母さんの矢口陽子さんは、気っ風(きっぷ)が良く、人を家に招くことが好きな明るい性格で、お父さんの仕事を陰でサポートする重要な存在だったといいます。

黒澤久雄は大学在学中にバンド「ザ・ブロードサイド・スリー」を結成していた

そんな黒澤久雄さんは、高校時代から音楽活動を始めると、1964年(成城大学在学中)には、鶴原俊彦さん、横田実さんとともに、バンド「ザ・ブロードサイド・スリー」を結成し、

翌年の1965年5月には、ファースト・アルバム「ザ・ブロードサイド・スリー」をリリースしています。

「ザ・ブロードサイド・スリー」

黒澤久雄は20歳の時にバンド「ザ・ブロードサイド・フォー」として「若者たち」が大ヒット

その後、「ザ・ブロードサイド・スリー」は、山口敏孝さんが新しくメンバーに加わり、バンド名を「ザ・ブロードサイド・フォー」と改名すると、

お父さんの黒澤明さんの映画音楽を担当していた佐藤勝さんから提供(作曲)された「若者たち」という曲が、1966年2月にスタートしたフジテレビの同名ドラマの主題歌(オープニング曲)に起用されたそうですが、

当初、ドラマは、視聴率が低く、3話ほどで打ち切りになりそうになっていたといいます。

ただ、その一方で、主題歌「若者たち」の人気は急上昇し、リクエストが殺到したそうで、その影響で、ドラマも最終的に9月まで続くヒットとなったのだそうです。

そして、翌1967年には、映画版が公開されることが決まると、主題歌の「若者たち」も、新たにレコーディングし直した「若者たち~空にまた陽が昇るとき」がアルバムに入れられることが決まったそうで、

先行シングル「若者たち」(ファーストシングル)が1966年8月1日に発売されると、30万枚を売り上げる大ヒットを記録したのでした。

「若者たち」
「若者たち」

(その後、「若者たち」は、坂本九さんや森田健作さんらにカバーされるほか、1970年代には、小学校や中学校の音楽教科書にも掲載され、学校音楽教育で広く親しまれるポピュラーソングとして定着しています)

また、2014年にリメイクされたテレビドラマ「若者たち2014」では、森山良子さんの長男の森山直太朗がこの曲をカバーし、主題歌に起用されています。

「ザ・ブロードサイド・フォー」は黒澤久雄の留学により解散していた

ただ、「ザ・ブロードサイド・フォー」は、その後、黒澤久雄さんが留学することになり、同年9月に、2枚目のシングル「星に祈りを(夜空の星)」をリリースしたのみで解散となっています。

「星に祈りを(夜空の星)」
「星に祈りを(夜空の星)」

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黒澤久雄は森山良子の代理人的な立場だった

ちなみに、音楽プロデューサーの本城和治さんは、

これはフォークの古典ですよね。フジテレビの「若者たち」というドラマの主題歌にアマチュアだった彼らが起用されたんです。

黒澤明監督の息子・黒澤久雄がリーダーだったんですけど、黒澤明監督の映画の音楽は佐藤勝さんが担当していて、この曲(若者たち)も佐藤さんが作られたんです。

たまたま黒澤監督が息子が音楽グループやってるからよろしくって言っていて、佐藤さんもそれが頭にあったんでしょうね。

と、語っているのですが、

もともと、本城和治さんは、アマチュアフォーク界で注目されていた森山良子さんと契約したかったそうで、

森山良子さんのステージが終わったタイミングで森山良子さんをスカウトしに行くと、森山良子さんの通う成城学園の先輩である黒澤久雄さん(当時は大学3年生)が代理人として出てきて、森山良子さんが芸能界の仕事に興味がないことを聞き、

(黒澤家と森山家は家族ぐるみの付き合いをしていたそうで、この時、森山良子さんは、まだ成城学園に通う高校生だったことから、黒澤久雄さんが森山良子さんの代理人的な立場だったのだそうです)

その後、黒澤久雄さんと話をしているうちに、

黒澤久雄さんが、

僕ら(ザ・ブロードサイド・フォー)も大学4年生で解散なんだ

と、言ったことから、

だったら解散(卒業)記念にアルバム作ろうよ

という話になり、

森山良子さんの話そっちのけで、「ザ・ブロードサイド・フォー」のアルバムを作ることになったのだそうです。

「【画像】黒澤久雄の若い頃は?歌手タレント俳優ほか映画プロデューサーも!」に続く

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