1943年、33歳の時、「姿三四郎」で映画監督デビューすると、以降、数多くの名作を発表し、1950年には「羅生門」がヴェネチア映画祭グランプリ、1952年には「生きる」がベルリン映画祭銀熊賞、1954年には「七人の侍」がヴェネチア映画祭銀獅子賞に輝くなど、映えある賞を多数受賞し、日本だけではなく世界中の映画人に多大な影響を与えた、黒澤明(くろさわ あきら)さん。

今回は、そんな黒澤明さんの、若い頃(監督デビュー以降)から他界されるまでの監督作品や経歴を時系列でご紹介します。

黒澤明

「黒澤明の若い頃(助監督時代)は山本嘉次郎監督に師事!脚本が絶賛されていた!」からの続き

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黒澤明は33歳の時に「姿三四郎」で映画監督デビューすると「山中貞雄賞」「国民映画奨励賞」を受賞

黒澤明さんは、1943年、33歳の時、柔道をテーマにした映画「姿三四郎」で監督デビューすると、迫力ある決闘シーンが話題となって、たちまちヒットを記録し、新人監督に贈られる「山中貞雄賞」と「国民映画奨励賞」を受賞しています。

「姿三四郎」

黒澤明が35歳~37歳の時には「一番美しく」「虎の尾を踏む男たち」「わが青春に悔なし」「素晴らしき日曜日」を発表

そんな黒澤明さんは、その後も、

  • 1945年には「一番美しく」
  • 1945年には「虎の尾を踏む男たち」(公開は1952年)
  • 1946年には「わが青春に悔なし」
  • 1947年には「素晴らしき日曜日」

と、次々と作品を発表すると、

いずれも高く評価され、東宝を代表する映画監督となったのでした。

黒澤明は38歳の時に三船敏郎をオーディションでひと目見てただならぬ気配を感じ、以来、三船敏郎を起用し続けていた

そんな中、1946年には、女優の高峰秀子さんから、「東宝ニューフェイス」の俳優オーディションを受ける1人の男性の話を聞き、オーディション会場に駆けつけると、

黒澤明さんは、その男性(三船敏郎さん)をひと目見て、ただならぬ気配を感じたそうで、不合格となるはずだったところ、わざわざ、審査委員長の山本嘉次郎監督に直訴して採用してもらったそうで、

翌年の1947年には、三船敏郎さんのデビュー作となった「銀嶺の果て」で脚本を担当すると、翌年の1948年には、自身の作品「醉いどれ天使」で三船敏郎さんを起用。

以降、三船敏郎さんを自身の作品で起用し続けたのだそうです。

黒澤明と三船敏郎
「用心棒」を撮影中の黒澤明さんと三船敏郎さん。

黒澤明は40歳の時に「羅生門」が「ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞」と「アカデミー賞名誉賞」を受賞

そして、1950年、40歳の時には、三船敏郎さん主演の映画「羅生門」を発表すると、この作品は、人間のエゴイズムを鋭く追求した難解な作品だったため、国内での評価は高くなかったそうですが、

海外では、大きな反響を呼び、翌年の1951年には、日本映画初となる「ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞」と「アカデミー賞名誉賞」を受賞したのでした。

「羅生門」
「羅生門」より。三船敏郎さんと京マチ子さん。

黒澤明は42歳~48歳の時に「生きる」「七人の侍」「蜘蛛巣城」で”世界のクロサワ”と称されるようになっていた

すると、黒澤明さんは、その後も、

と、栄えある賞を次々と受賞して、”世界のクロサワ”と称されるようになり、その名を世界に轟かせたのでした。

黒澤明は55歳の時に「赤ひげ」を発表するも完全主義を徹底したことで東宝に専属契約を解除されていた

こうして、映画監督の地位を確固たるものにした黒澤明さんは、1965年には、「赤ひげ」を発表するのですが・・・

完全主義を徹底したことで、撮影期間は約1年を要し、予算も大幅に超過したため、東宝との関係が悪化し、東宝との専属契約を解除されてしまったのでした。

「赤ひげ」
「赤ひげ」より。

黒澤明は58歳の時に日米合作映画「トラ・トラ・トラ!」の製作に参加するも監督を降板させられていた

また、黒澤明さんは、1968年、58歳の時には、ハリウッドからオファーを受け、日米合作映画「トラ・トラ・トラ!」の製作に参加するのですが・・・

日本とアメリカの映画作りの方法が違うことから、監督を降板させられてしまいます。

「トラ・トラ・トラ!」
「トラ・トラ・トラ!」より。

黒澤明は59歳の時に初のカラー作品「どですかでん」を発表するも商業的には失敗に終わっていた

そして、それから1年後の1969年には、初のカラー作品「どですかでん」を製作するのですが・・・

この作品は、かつて画家を目指していた黒澤明さんが、制作のため、邸宅を抵当に入れてまで資金を調達し、独特な色彩感覚で社会の底辺に生きる人々の姿を描いているのですが、商業的には失敗に終わってしまったのでした。

「どですかでん」
「どですかでん」より。

黒澤明は61歳の時に自殺を図っていた

そんな黒澤明さんは、その後は、監督の仕事が激減し、資金も集めることができず、撮りたい映画が撮れない苦悩と、先の見えない精神的な不安に苛まれたそうで、

1971年、61歳の時には、浴室で手首を切って自殺を図っています。

(幸い、一命を取り留めています)

黒澤明は65歳の時に旧ソ連に招かれ映画「デルス・ウザーラ」を制作すると「モスクワ映画祭金賞」「アカデミー外国語映画賞」を受賞

こうして、失意のどん底にいたという黒澤明さんですが・・・

1975年、旧ソ連により「どですかでん」が高く評価され、ソ連に招かれて、映画製作を要請され、「デルス・ウザーラ」を完成させると、

この作品は、「モスクワ映画祭金賞」「アカデミー外国語映画賞」を受賞し、黒澤明さんは、再び、世界に返り咲いたのでした。

「デルス・ウザーラ」
「デルス・ウザーラ」より。

黒澤明は70歳の時に「影武者」が「カンヌ国際映画祭パルム・ドール賞」を受賞

以降、かつての勢いを取り戻した黒澤明さんは、1980年には、ジョージ・ルーカスさん、フランシス・フォード・コッポラさんの支援を受け、「影武者」を発表すると、

この作品は、「カンヌ国際映画祭パルム・ドール賞」を受賞しています。

「影武者」
「影武者」より。

黒澤明は75歳の時に「乱」、80歳の時に「夢」を外国資本で制作し発表していた

そして、

を発表しています。

(「乱」と「夢」は、いずれも名作ですが、外国資本で制作されています)

黒澤明は83歳の時に「まあだだよ」を発表

その後も、黒澤明さんは、映画を作り続け、1993年、83歳の時には、「まあだだよ」を発表しています。

「まあだだよ」
「まあだだよ」より。

黒澤明の死因は脳卒中

しかし、1995年3月、次回作「雨あがる」の脚本執筆中、京都の旅館で転倒して骨折すると、そのまま療養生活となってしまい、

1998年9月6日、東京都世田谷区成城の自宅で、脳卒中により、87歳で他界されたのでした。

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黒澤明の監督作品

それでは、最後に、黒澤明さんの主な監督作品をご紹介しましょう。

などの作品を発表しています。

「黒澤明の妻・矢口陽子との馴れ初めは?結婚後の関係(夫婦仲)は?」に続く

お読みいただきありがとうございました

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