作曲家として、杉山清貴&オメガトライブの「SUMMER SUSPICION」、上田正樹さんの「悲しい色やね」、杏里さんの「悲しみがとまらない」、竹内まりやさんの「September」、中森明菜さんの「北ウイング」ほか、次々とヒット曲を世に送り出した、林哲司(はやし てつじ)さん。

そんな林哲司さんは、幼い頃から、歌謡曲やアメリカン・ポップスが好きな2人のお兄さんの影響で、音楽に恵まれた環境で育ったそうで、ラジオやレコードから流れてくるメロディを遊びながらオルガンで弾いていたそうですが、

高校1年生の時、加山雄三さんが自身で作曲した曲を歌っている姿を見て衝撃を受け、自分でも作曲をしてみようと思い立ったといいます。

今回は、林哲司さんの幼少期(生い立ち)からヤマハの音楽スクールに通うまでをご紹介します。

林哲司

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林哲司のプロフィール

林哲司さんは、1949年8月20日生まれ、
静岡県富士市の出身、

学歴は、
静岡県立富士高等学校
⇒日本大学商学部(2年生で)中退

趣味は、釣り、スキー、ボディサーフィン、

だそうです。

林哲司は幼い頃は兄の影響により音楽に恵まれた環境で育っていた

林哲司さんは、製紙工場を創業し経営するお父さんと小学校の教師だったお母さんのもと、富士山の南麓に広がる静岡県富士市に、5人きょうだい(男3人・女2人)の末っ子として誕生すると、

幼い頃は、長兄が歌謡曲、次兄がアメリカの音楽を好んで聴いていたことから、その影響を受けて、自然と様々な音楽に触れる環境で育ったそうです。

(長兄とは15歳、次兄とは12歳、年が離れていたそうです)

また、ラジオやレコードから流れてくるメロディを、家にあったオルガンで遊びながら弾くこともあったそうで、

林哲司さんは、

自然と音感が鍛えられたような気がします。

と、語っています。

ちなみに、林哲司さんがはっきり覚えている曲は、江利チエミさんの「テネシー・ワルツ」や雪村いづみさんの「ス・ワンダフル」「オー・マイ・パパ」などだそうです。

(お母さんが小学校の教師だったことから、家にオルガンがあったそうです)

林哲司は少年時代にアメリカン・ポップスや歌謡曲を自発的に聴くようになっていた

そして、やがては、ラジオの洋楽番組などを自発的に聴くようになり、友達にギターを借り、楽譜を買って練習を始めるほか、

アメリカン・ポップスだけではなく、お父さんが好きだった三橋美智也さん、美空ひばりさんなどの歌謡曲も、歌詞を自然に覚えるくらい繰り返し聴き、歌ったそうです。

林哲司は高校1年生の時に加山雄三に衝撃を受け本格的に作曲を始めていた

そんな林哲司さんは、中学時代は、ブラスバンド部に所属し、中学3年生の時、音楽の授業で初めて作曲をしたそうですが、

(ブラスバンドに在籍していたことから、簡単な曲は作れたそうです)

それは唱歌的な曲だったそうで、ポップスという意味では、高校1年生の時、加山雄三さんに影響を受け、本格的に作曲を始めたそうで、

林哲司さんは、

彼が自分で作曲して自分で歌っている、という事実に衝撃を受けました。曲自体の格好良さもありましたが、何より「自分でも曲が作れるのかな?」という意識が芽生えるきっかけになりました。

もちろん、ビートルズが自分たちで曲作りをしていることは知っているんだけど、なんといっても海外の人たちだったから、現実味がなかったんですよ。

でも当時の日本の音楽シーンで「日本人の役者さんが、自分で曲を書いている」という事実にはものすごくリアリティがあった。作曲の専門家じゃなくても曲が書けるということを知った時に、自分もやってみようかなと思い立って、曲をパラパラと書き始めたのが16歳の頃です。高校1年ですね。

と、語っています。

林哲司は高校時代はサッカー部に所属も1日1曲作曲をしていた

ただ、高校進学後は、当時はエレキが禁止の時代だったことから、バンド活動ができず、サッカー部に入部したそうですが、

曲作りだけはやめなかったそうで、サッカー部で日が暮れるまで練習した後、家に帰ってオープンリール・テープに向かって1日1曲はギターで曲を入れていくという毎日を送ったそうで、高校を卒業するまでに、なんと、200曲も作ったのだそうです。

林哲司は大学受験で不合格になり一浪するも音楽への情熱が止められなかった

そんな中、大学受験に向けて受験勉強をしなければならない時期になると、サッカー部を辞めたそうですが、

サッカーがなくなった分、いっそう音楽熱が高まり、受験勉強に身が入らず、結果、志望校への受験は不合格になってしまったそうで、

予備校に通うことになり、1968年、19歳の時に上京したそうですが・・・

東京ではさらに誘惑が多く、いつの間にか、(高校時代からウエスタンカーニバルやジャズ喫茶に行っていたことから、自然の流れで)ライブハウスや映画館に通うようになったそうです。

それでも、林哲司さんは、一浪の末、日本大学商学部に合格したそうですが、大学には行かず、地元の静岡の友達が下宿していた吉祥寺に入り浸り、何かと言えば新宿に繰り出し、新しい発見を探し求めたのだそうです。

(林哲司さんが浪人生活を送っていた1968年は、1966年にビートルズが来日した影響で、グループサウンズがブームとなっており、そのすぐ後に新しいロックが生まれるなど、音楽シーンが一気に盛り上がった時期だったそうです)

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林哲司は20歳の時にヤマハの音楽スクールに入学していた

そんな林哲司さんは、20歳になった時、本格的に音楽を勉強しようと思い立ち、ヤマハが主催する音楽スクールに入学して、作曲・編曲を学ぶコースに所属し、音楽理論などをしっかりと学ぶと、

その後、ヤマハの音楽雑誌「ライトミュージック」の編集にも携わるようになったのだそうです。

「【画像】林哲司の若い頃から現在までの代表曲やヒット曲ほか経歴は?」に続く

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