1971年、25歳の時、日本初のピアノ弾き語りシンガーソングライターとして、アルバム「ある若者の肖像」でレコードデビューすると、フュージョンを日本で最初に手掛けるほか、1972年頃、日本に入ってきたばかりだったシンセサイザーに着目し、シンセサイザーの第一人者として、引っ張りだことなった、深町純(ふかまち じゅん)さん。

今回は、そんな深町純(ふかまち じゅん)さんの、若い頃(レコードデビュー)から他界されるまでのアルバムや経歴を時系列でご紹介します。

深町純

「深町純の生い立ちは?幼少期はピアノの神童!高校生にしてオペラの指揮や演出!」からの続き

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深町純は25歳の時にアルバム「ある若者の肖像」でレコードデビュー

深町純さんは、1971年、25歳の時、日本初のピアノ弾き語りシンガーソングライターとして、アルバム「ある若者の肖像」で、レコードデビューしています。

(この「ある若者の肖像」では、深町純さん自ら、作詞・作曲・編曲・ヴォーカル・ピアノ・オルガンを担当した意欲作となっています)

ただ、売上は思わしくなく、

その後も、1972年、1枚目のアルバム同様、シンガーソングライター路線のアルバム「Hello ! 深町純 Ⅱ」と、ピアノ・ソロ・アルバム「ピアノ・ソロ/ベスト・オブ・ビートルズ」をリリースするも、売上はパッとしなかったそうです。

深町純は26歳の時からシンセサイザーの第一人者として引っ張りだことなっていた

しかし、深町純さんは、1972年頃、日本に入ってきたばかりだったシンセサイザー「アープ2600」に接すると、関心を持ち、使いこなすまでになったそうで、

(もともと、電気的な工作などが好きでラジオを組み立てたりしていたことから、何の抵抗もなくシンセサイザーを受け入れることができたのだそうです)

まもなく、スタジオ・ミュージシャンとして引っ張りだことなり、井上陽水さんの、

ほか、森山良子さん、小椋佳さん、由紀さおりさんなど、数多くのミュージシャンの作品に携わるようになったのでした。

深町純は29歳の時に日本初のフュージョン・リーダーアルバム「Introducing Jun Fukamachi」をリリース

また、深町純さんは、1975年には、日本初となるフュージョン・リーダーアルバム「Introducing Jun Fukamachi」をリリースしています。

(※フュージョンとは、クラシック音楽とジャズやロックなどの現代音楽をミックスした音楽、リーダー・アルバムとは、歌手ではない楽器演奏者のアルバムで、その演奏者の人の名義でアルバムをリリースする場合に用いるそうです)

「Introducing Jun Fukamachi」
「Introducing Jun Fukamachi」

ちなみに、このアルバムには、大村憲司さん、村上”ポンタ”秀一さん、小原礼さんが参加した、深町純さんの代表作「バンブー・ボング」が収録されています。

深町純は29歳の時に「21stセンチュリーバンド」としてアルバム「六喩」をリリース

さらに、同年(1975年)、深町純さんは、大村憲司さん、村上”ポンタ”秀一さん、小原礼さんと共に、「21stセンチュリーバンド」を結成し、アルバム「六喩」をリリースしているのですが、

このアルバムは、後のフュージョン・ブームの先駆けとなっています。

「六喩」
「六喩」

深町純は64歳で死去

その後も、深町純さんは、権威や商業的な音楽を断固として拒否する姿勢を貫く一方で、音楽のジャンルに境界線はないとの考えで、作曲家、演奏家として、常に新しいものに果敢に挑戦して、数多くのアルバムを発表するほか、ライブなどの音楽活動も展開し、

2010年には、佐藤正治(ヒカシュー)さん、KONTA(BARBEE BOYS)さんと新バンド「僕らのしぜんの冒険」を結成して、11月24日には、ファーストアルバム「garden」をリリースし、CD発売を期にツアーも予定されていたのですが・・・

2010年11月22日、都内の自宅で、大動脈解離による心嚢血腫により、64歳で他界されています。

深町純
「僕らのしぜんの冒険」(左から)KONTAさん、佐藤正治さん、深町純さん。

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深町純の主なアルバム

それでは、最後に深町純さんの主なアルバムをご紹介しましょう。

など、数多くのアルバムをリリースしています。

「深町純の死因(突然死)は?妻の証言は?子供は?」に続く

お読みいただきありがとうございました

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