1972年、21歳の時、フォークグループ「赤い鳥」のドラマーのオーディションに合格し、プロデビューすると、以降、ジャズ、ロック、J-POP、歌謡曲と、様々なジャンルの音楽に対応できるセッションドラマーとして国内外で活躍した、村上”ポンタ”秀一(むらかみ ぽんた しゅういち)さん。

そんな村上”ポンタ”秀一さんは、中学1年生の時、吹奏楽部に所属し、フレンチホルンを始めると、中学2年生の時、ティンパニに転向したそうで、ドラムを始めたのは、大学中退後の19歳の時だったといいます。

今回は、村上”ポンタ”秀一さんの、幼少期(生い立ち)から「赤い鳥」のドラムオーディションに合格するまでをご紹介します。

村上”ポンタ”秀一

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村上”ポンタ”秀一のプロフィール

村上”ポンタ”秀一さんは、1951年1月1日生まれ、
兵庫県西宮市の出身、

血液型はO型、

学歴は、
西宮市立今津中学校
⇒西宮市立西宮高等学校
⇒大阪教育大学中退

だそうです。

村上”ポンタ”秀一が幼い頃は家庭の事情で京都・祇園の芸妓に預けられていた

村上”ポンタ”秀一さんは、生まれてから4歳半になるまで、家庭の事情で、京都・祇園に預けられ、

お母さんの親友の芸妓・ポンタ姐さんに育てられたそうです。

村上”ポンタ”秀一の本名は?ポンタの由来は?

村上”ポンタ”秀一さんの本名は「村上秀一」で、愛称は「ポンタさん」なのですが、

「ポンタ」の由来は、幼い頃、家庭の事情で京都・祇園の芸妓に預けられていた際、その芸姑さん(育ての親)が「ポンタ姐さん」と呼ばれており、

村上”ポンタ”秀一さんが親元に帰る際、ポンタ姐さんが、

せめて名前は持っていって

と言ったことから、親元に戻ってからは、ずっと「ポンタ」と呼ばれるようになったのだそうです。

ちなみに、ポンタ姐さんは祇園の実力者だったそうで、村上”ポンタ”秀一さんは、大人になってからも、ポンタ姐さんのコネで、京都、仙台、金沢など、どこの花街に遊びに行っても、10円以上払ったことがなかったといいます。

(村上”ポンタ”秀一さんは、「ポンタ村上」名義を使っていたこともあったそうです)

村上”ポンタ”秀一は中学時代に吹奏楽部でフレンチ・ホルンを始めるもティンパニに転向していた

そんな村上”ポンタ”秀一さんは、中学に進学すると、吹奏楽部に入部し、得津武史さんの指導により、フレンチ・ホルンを始めたそうですが、

中学2年生の時に、得津武史さんの親友・朝比奈隆さんが来校した際、リストの強さに目をとめられ、ティンパニを勧められたそうで、これをきっかけにティンパニに転向したそうです。

村上”ポンタ”秀一は高校時代はブラスバンド部で部長兼指揮者を務めていた

また、村上”ポンタ”秀一さんは、中学卒業後、高校に進学すると、

ブラスバンド部に所属し、高校1年生から部長兼指揮者を務めたそうです。

村上”ポンタ”秀一は大学中退後は大阪ロイヤルホテル付きの音楽事務所でバンドボーイとして働いていた

高校卒業後の1969年、村上”ポンタ”秀一さんは、大学に進学したそうですが、その頃、最盛期を迎えていた学生運動に嫌気が差し、3日で中退したそうで、

両親に勘当され、その後、得津武史さんの紹介で、大阪ロイヤルホテル付きの音楽事務所を紹介してもらい、バンドボーイとして働き始めたそうです。

(村上”ポンタ”秀一さんは、この頃、クラブ歌手だった和田アキ子さん、ピーターさん、カルーセル麻紀さんらと知り合ったそうです)

村上”ポンタ”秀一がドラムを始めたのは大学中退後だった

そんな中、1970年代初め頃、ジョン・コルトレーンのアルバム「インプレッションズ」での、エルヴィン・ジョーンズのドラムプレイを聴いて衝撃を受けたそうで、

これまで、クラシック音楽一辺倒だったのが、一転、ドラムを始めたのだそうです。

村上”ポンタ”秀一
ジョン・コルトレーンのアルバム「インプレッションズ」。

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村上”ポンタ”秀一は21歳の時にフォークグループ「赤い鳥」のドラマーオーディションに即合格していた

そして、1972年、21歳の時には、フォークグループ「赤い鳥」のドラマーオーディションを受けると、即合格したそうで、

「赤い鳥」のリーダーだった後藤悦治郎さんは、その理由について、

当時日本で主流だったジャズマンによるドラム演奏とは全く違う、重い8ビートだった。リンゴ・スターとかスティーブ・ガットのようだったというかな。それで、『即、加入してくれ』と

ロックの時代だった。自分たちもロックを取り入れたかった

と、語っています。

実は、このドラムオーディションでは、28人が参加しており、村上”ポンタ”秀一さんは、8番目にドラムを叩いたそうですが、

それまで、7人がドラムを叩いていた際には、バンドメンバーは無反応だったそうですが、村上”ポンタ”秀一さんがドラムを叩いた瞬間、バンドメンバーの顔色が変わり、即合格となったそうで、残り20人の参加者は、演奏すらさせてもらえず、ここでオーディションは終了となったのだそうです。

しかも、村上”ポンタ”秀一さんは、オーディションを受ける前の1年半ぐらいは、ドラムは一切叩かず、”頭の中で”練習していたそうで、満を持して受けたのが「赤い鳥」のオーディションだったそうですが、ドラムスティックを握って4日目のことだったといいます。

ちなみに、「赤い鳥」には、一足先に、ギタリストの大村憲司さんが加入しており、村上”ポンタ”秀一さんは、大村憲司さんのギタープレイに惹かれて「赤い鳥」のオーディションを受けたとも言われています。

「【画像】村上ポンタ秀一の若い頃から死去までの経歴は?逮捕されていた?」に続く

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