1972年、25歳の時、バラエティ番組「ぎんざNOW!」の司会に抜擢されてブレイクすると、1973年には「うわさのチャンネル」でも人気を広げ、以降、バラエティ、ドラマ、ラジオと、幅広く活躍した、せんだみつおさん。
そんなせんだみつおさんは、小学生2年生の時、スカウトされて児童劇団「劇団 杉の子」に入団すると、小学3年生の時には、舞台「人形の家」で子役デビューするも、中学進学後は、子役を辞め、芸能界とは無縁の生活を送っていたそうですが、
高校生の時、菅原進さんと知り合うと、大学中退後の1967年、21歳の時、靴磨きのアルバイトをしながら、菅原兄弟(菅原進さん&菅原孝さん)が結成したフォークユニット「ビリー・バンバン」にコンガ担当で加入したといいます。
今回は、せんだみつおさんの、幼少期(生い立ち)から、大学中退後「ビリー・バンバン」に加入するまでをご紹介します。
せんだみつおが幼い頃は病弱だった
せんだみつおさんは、王子製紙のエンジニアだったお父さんのもと、お父さんの派遣先の南樺太(からふと)・真岡市で、2人兄弟の次男として誕生すると、
(現在、樺太は全域、ロシアが領有権を主張・実効支配していますが、かつて、南樺太は日本の領土でした)
小学3年生の時、舞台「人形の家」で子役デビューして以来、60年以上に渡り、芸能界で活動している、せんだみつおさん。今回は、そんなせんださんの生い立ちについてご紹介します。 Sponsored Link 年齢は?出身は?身 …
生後まもなくは、ミルクも飲めず、医師に「死亡届をもらいに来たの?」と言われるほど病弱だったそうです。
せんだみつおは小学3年生の時に舞台「人形の家」で子役デビュー
それでも、お母さんが、すりおろしたリンゴをせっせと与えてくれたほか、
1948年に岩手県に引き揚げ、その後、宮崎県に引っ越しをした後は、お父さんが抱っこをして日向ぼっこをしてくれ、その甲斐あって元気になったそうで、
小学2年生の時、東京・杉並区荻窪へ転居すると、小学3年生の時には、新宿伊勢丹前でスカウトされて、児童劇団「劇団 杉の子」に入団し、同年には、舞台「人形の家」で子役デビューを果たしたそうです。
王子製紙のエンジニアのお父さんのもと、お父さんの勤務先だった樺太(サハリン)真岡市で誕生した、せんだみつおさんは、生まれてすぐの頃は病弱も、両親の献身的な世話のお陰で、無事、健康に育つと、小学2年生の時にはスカウトされて …
せんだみつおは中学進学後に子役を辞めるも、やがて白黒テレビの影響で俳優や歌手に憧れるようになっていた
ただ、せんだみつおさんは、中学進学後は、劇団を辞めて野球部に入部し、高校進学後は、背を伸ばしたくてバスケットボール部に入部したそうで、芸能活動とは無縁の学校生活を送ったそうです。
とはいえ、中学生の時には、お父さんが白黒テレビを買ってくれ、「脱線トリオ」(特に由利徹さん)の芸に夢中になり、
高校では、GS(グループ・サウンズ)ブームが到来して、せんだみつおさんも夢中になったそうで、特に、「ザ・スパイダース」の堺正章さんと井上順さんの掛け合いに惹かれ、俳優や歌手に憧れるようになったそうです。
小学2年生の時、スカウトされて、児童劇団「劇団 杉の子」に入団すると、小学3年生の時には、「人形の家」で子役デビューしたという、せんだみつおさんですが、芸能活動は小学生までで、中学・高校時代はお芝居とは無縁の生活を送って …
せんだみつおは高校在学中に菅原進(後のビリー・バンバン)と出会っていた
また、せんだみつおさんは、高校生の時、小・中学校時代の友人で、日本大学第二高等学校に進学していた高木さんと駅で出会ったそうですが、その際、一緒に来ていた菅原進さん(後の「ビリー・バンバン」)と知り合ったそうで、
その後は、既に人気者だった菅原進さんを利用する形で、学校を抜けては、銀座にナンパに繰り出し、女の子と同伴喫茶や日比谷公園へ出かけるようになったそうです。
(菅原進さんは東京・国立在住で、兄の菅原孝さんと一緒に作曲家・浜口庫之助さんの歌謡スクールに通うなど、既に音楽活動をしていて、人気があったのだそうです)
せんだみつおは一貫校にもかかわらず法政大学を不合格になっていた
そんな中、せんだみつおさんが通っていた法政一高が、それまで、(一貫校だったことから)無試験で法政大学に進学できたところ、団塊の世代で人数が多かったことから、(入学試験よりは簡単な)試験を受けるという制度に変わってしまったそうで、
せんだみつおさんは、その試験を受けたそうですが・・・
不合格となってしまったのだそうです。
小学校卒業後は子役を辞め、中学・高校時代は芸能活動とは無縁の生活を送って、お笑いなどをテレビで観る立場になっていたという、せんだみつおさんは、後に、親友でフォークユニット「ビリー・バンバン」の菅原進さんが縁となって、再び …
せんだみつおは21歳の時「ビリー・バンバン」にコンガ担当として加入するも1年でクビになっていた
それでも、せんだみつおさんは、普通に受験し、駒沢大学へ進学したそうですが、やがて、面白くなくなり、2年で中退したそうで、
大学中退後は、靴磨きのアルバイトをしつつ、菅原進さんが通う浜口庫之助さんの歌謡スクールに出入りするようになると、
1967年、21歳の時には、菅原兄弟(菅原進さんと菅原孝さん)が結成したフォークユニット「ビリー・バンバン」にコンガ担当で加入したそうですが・・・
1968年には、レコード会社の意向で脱退させられてしまったのだそうです。
せんだみつおは「ビリー・バンバン」をクビになった後もサポートメンバーとして活動していた
そんな中、せんだみつおさんは、コックになろうと、服部栄養学園に通い始め、1年間通った末、調理師免許を無事取得し、服部栄養学園を卒業したそうですが、
実は、せんだみつおさんは、「ビリー・バンバン」を脱退させられてからも、昼間、服部栄養学園に通いながら、夜は、「ムッシュ中野」名義で「ビリー・バンバン」の活動をサポートしていたそうで、
1969年1月、服部栄養学園を卒業し、これからの進路について考えていたちょうどその頃、「ビリー・バンバン」が、デビュー曲「白いブランコ」が大ヒットして、一躍、脚光を浴び、各方面から引っ張りだことなったことから、せんだみつおさんのサポート業務も忙しくなったそうで、
せんだみつおさんは、この全国巡業を機に、芸能界で生きる決意を固めたのだそうです。
高校生の時、共通の友人を介し、菅原進さんと知り合うと、学校をさぼってはナンパに明け暮れたという、せんだみつおさんは、その後、大学を中退し、菅原さんと菅原さんの兄・孝さんのフォークユニット「ビリー・バンバン」にコンガ担当と …
「【画像】せんだみつおの若い頃は?ナハナハや「ぎんざNOW」でブレイク!」に続く
1969年、22歳の時、ラジオ番組「東芝ワイドワイドサンデー」のレポーターに起用され、徐々に仕事を増やしていくと、1972年には、若者向け音楽番組「ぎんざNOW!」のMCに抜擢されて、ブレイクを果たし、その後、「ナハナハ …