1969年、22歳の時、ラジオ番組「東芝ワイドワイドサンデー」のレポーターに起用され、徐々に仕事を増やしていくと、1972年には、若者向け音楽番組「ぎんざNOW!」のMCに抜擢されて、ブレイクを果たし、その後、「ナハナハ」などのギャグで一世を風靡した、せんだみつおさん。

今回は、そんなせんだみつおさんの、若い頃(レポーター時代~ブレイク~再ブレイク)の活躍や経歴を時系列でご紹介します。

せんだみつお

「せんだみつおの生い立ちは?小学生で子役!大学中退後はビリー・バンバン!」からの続き

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せんだみつおは22歳の時にラジオ番組「東芝ワイドワイドサンデー」のレポーターに起用されていた

昼間、調理師学校に通うかたわら、夜は「ビリー・バンバン」のサポート業務をしていたという、せんだみつおさんですが、

1969年、22歳の時、「ビリー・バンバン」のメジャーデビュー曲「白いブランコ」が20万枚を売り上げる大ヒットとなると、一気に仕事が増えたそうで、

  • コメディアンの世志凡太(せし ぼんた)さんの運転手
  • フランキー堺さんのバンド「フランキー堺とゴールデンボールズ」の楽器運び

などの仕事をするようになると、

ついには、ラジオ番組「東芝ワイドワイドサンデー」のレポーターに起用されたそうです。

せんだみつおは22歳の時に和田アキ子とのラジオ番組「ワゴンでデート」のメイン司会者に抜擢されていた

とはいえ、せんだみつおさんは、「東芝ワイドワイドサンデー」でのレポーターがうまくできず、アドバイスを受けて実践するも、それでも、どうしてもうまくいかなかったそうですが、

せんだみつおさんならではの個性が認められたそうで、同年(1969年)には、和田アキ子さんとのトークラジオ番組「ワゴンでデート」のメイン司会者に抜擢されたのだそうです。

せんだみつおは26歳の時「ダメな男のロック」で歌手デビューしていた

その後、せんだみつおさんは、「ワゴンでデート」は短期で終了してしまうも、「ミッドナイトムーブメント」「ラジオカウント」「セイ!ヤング」「ハローパーティー」などラジオの司会で活躍すると、縁を生かして活動の幅を広げていったそうで、

1973年には、鈴木ヒロミツさんプロデュースによる「ダメな男のロック」で歌手デビューも果たすほか(売上は約6000枚)、

「ダメな男のロック」
「ダメな男のロック」

黒澤明監督の映画「どですかでん」公開時には銀座のサイン会で呼び込みを務め、

(親交を深めていた長男・黒澤久雄さんとの縁だったそうです)

落語家の(初代)林家三平さんとも交流を持つようになったそうです。

(林家三平さんがラジオ番組「ハローパーティー」にゲスト出演してくれた縁だったそうです)

せんだみつおは25歳の時に「ぎんざNOW!」の司会で大ブレイクしていた

そんなせんだみつおさんは、1972年、25歳の時には、キャシー中島さんとバラエティ番組「ぎんざNOW!」(平日17:00~17:30)の司会に抜擢されると、

(テレビ低迷期に深夜ラジオ的な勢いを取り込む流れの中、作家の奥山伸さんの勧めでオーディションを受け、見事、合格したのだそうです)

当時は、“ゴミ箱”と呼ばれた時間帯にもかかわらず、視聴率が二桁に達する大ヒットなり、大ブレイクを果たしたのでした。

「ぎんざNOW!」
「ぎんざNOW!」より。

ちなみに、後年、せんだみつおさんは、当時、「ぎんざNOW!」にゲスト出演していた、(まだ無名だった)竹中直人さん、矢沢永吉さん、宇崎竜童さんらに対し、上から目線で接し、今では考えられないような言葉をかけていたことを自虐的に明かしています。

せんだみつおが26歳の時には「金曜10時!うわさのチャンネル!!」の司会で高視聴率を記録していた

また、その後も、せんだみつおさんは、1973年には、バラエティ番組「金曜10時!うわさのチャンネル!!」の司会に抜擢されると、「金曜10時!うわさのチャンネル!!」は、最高視聴率30%の大ヒットを記録しています。

ちなみに、せんだみつおさんは、「金曜10時!うわさのチャンネル!!」では、ゲスト出演していた、歌手の千昌夫さんと大ゲンカをしたことがあったといいます。

せんだみつおの持ちネタ「ナハナハ」の生みの親は湯原昌幸だった

そんなせんだみつおさんは、その後も、数々のバラエティ番組で司会を担当し、安定した人気を誇ると、「ナハナハ」でも人気を博しています。

実は、せんだみつおさんの持ちネタ「ナハナハ」は、

湯原昌幸さんに、両耳の横で両手を動かしながら「ナハナハ」と見せられ、

ウルトラマンが飛び立つ時に『シュワッチ、ナハ』と言っている

と、教えられたのがきっかけだったそうで、

せんだみつおさんが円谷プロダクションに確認したところ、本当に、ウルトラマンが飛び立つ際には、「ナハ」と言っていることが分かったそうで、

以来、せんだみつおさんが、拝借し、持ちネタとして使い始めたのだそうです。

せんだみつおと湯原昌幸
せんだみつおさん(左)と湯原昌幸さん(右)。

せんだみつおは31歳の時に過労で倒れ入院を余儀なくされていた

また、せんだみつおさんは、バラエティ番組で司会を務める一方で、俳優としても活動していたのですが、

憧れの俳優、フランキー堺さんから、

シリアスなドラマもやったほうがいい

とアドバイスを受け、NHKのドラマに出演したいという気持ちを抱くようになったそうで、

出演中のバラエティ番組「金曜10時!うわさのチャンネル!!」で、その想いをアピールしたところ、NHKの演出家・深町幸男さんの目に留まり、NHKのドラマ「北上山系」への出演が実現したそうですが・・・

「北上山系」
「北上山系」より。せんだみつおさん(左)と中条静夫さん(右)。

当時、せんだみつおさんは、テレビ・ラジオのレギュラー番組が10本以上あったほか、俳優としても活動していたことから、

1978年12月(せんだみつおさん31歳)には、過労がたたって、ついに倒れ、4ヶ月間の入院を余儀なくされて、すべてのレギュラー番組を降板することになったのだそうです。

せんだみつおは31歳の時に過労で入院中にノイローゼになっていた

また、せんだみつおさんは、入院に際し、病状を公表しなかったそうですが、肝臓ガンの噂を立てられたそうで、

この報道が原因でノイローゼになり、さらには、俳優の田宮二郎さんの自殺のニュースが重なり、精神的に追い詰められたそうです。

(せんだみつおさんは、以前、田宮二郎さん主演のドラマに出演した際、田宮二郎さんに親切にしてもらったそうですが、田宮二郎さんは自身の出演映画が失敗に終わったことへの苦悩を明かしていたそうで、せんだみつおさんは、自身の悩みよりもはるかに深い苦しみを抱えていたのではと思ったそうです)

せんだみつおは31歳の時にレギュラー番組が全てなくなっていた

そして、1979年3月、ようやく、4ヶ月の療養を経て退院したそうですが・・・

この時、レギュラー番組はすべてなくなっていたといいます。

というのも、世間は、せんだみつおさんのような”動きの芸”ではなく、「ツービート」らに代表されるテンポの速い”しゃべりの芸”を求めていたそうで、漫才ブームが到来していたのだそうです。

そんな、仕事がない中、せんだみつおさんは2人の子供を授かったそうですが、将来への不安から日取りの仕事を必死に探し、選挙の応援や結婚式の司会などをこなして生計を立てたのだそうです。

ただ、仕事がないことから、小学生にからかわれたり、寂しそうな後ろ姿に見えたのか、見知らぬ人に自殺と勘違いされ引き留められたこともあったといいます。

せんだみつおは30代の時には自虐ネタで新境地を開拓し再ブレイクしていた

それでも、小堺一機さんの結婚式での自虐的なスピーチがきっかけで、「笑っていいとも!」のプロデューサー・横澤彪さんの目に留まり、「笑っていいとも!」へのレギュラー出演が決まると、

この経験から、せんだみつおさんは、「ウケない、金ない、仕事ない」といった逆境をネタにする自虐路線を確立。

すると、クイズ番組「アイ・アイゲーム」の司会を務めていた山城新伍さんも、レギュラーに起用してくれたそうで、「芸能界で301番目のタレント」といった自虐的な紹介で笑いを誘ったのだそうです。

(山城新伍さんは、他にも様々なネタを考案してくれるなど、かわいがってくれたそうで、せんだみつおさんの再ブレイクを後押ししてくれたそうです)

「アイ・アイゲーム」
「アイ・アイゲーム」より。

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せんだみつおは38歳の時に空き巣被害に遭うもネタにしてもらっていた

こうして、自虐ネタを確立し、再び仕事を増やしていったせんだみつおさんですが、1985年頃には、空き巣被害に遭ってしまったといいます。

ただ、この被害でさえも、タモリさんやビートたけしさんに、

久々のカメラの放列

などと、番組でネタにしてもらったそうで、

せんだみつおさんの被害額は40万円相当だったそうですが、タレントの空き巣被害としては歴代最下位だったことから、このことでも、タモリさんらにイジってもらったのだそうです。

とはいえ、お笑いの仕事は増えず、その後は、人気絶頂期に築いた人脈を頼りに、俳優として数多くの名優と共演したそうで、

たくさんの縁に恵まれたこの時期を、せんだみつおさんは、「第二次黄金期」と呼んでいるのだそうです。

お読みいただきありがとうございました

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