1970年7月、16歳の時、ライオンの歯磨きのCMに出演すると、たちまち人気を博すも、1972年、18歳の時、「初恋のメロディー」でアイドル歌手デビューすると、アイドルとしては、どこか気だるそうに歌う独特のスタイルで適性がないとされ、歌手活動は自然消滅してしまったという、小林麻美(こばやし あさみ)さん。
それでも、同年、テレビドラマ「光る海」での好演で反響を呼び、女優としてはオファーが殺到したそうですが・・・
1973年春、19歳の時には、持病の神経性胃潰瘍が悪化したそうで、同年初夏には実家に引きこもり、「苦労知らずのわがまま」と批判される中、実質的に引退していたといいます。
今回は、そんな小林麻美さんの若い頃(デビュー~1回目の引退)を時系列でご紹介します。

「小林麻美の生い立ちは?幼少期は裕福も孤独で中学時代は不良少女だった!」からの続き
小林麻美は16歳の時にライオンの歯磨きのCMで一躍人気を博していた
中学3年生の時にモデルとしてスカウトされた小林麻美さんは、久光化粧品、ジュジュ化粧品、日立など、次々にCM(コマーシャル)に出演しているのですが、
1970年7月、16歳の時、ライオンの歯磨きのCMに出演すると、たちまち人気を博し、もともと、単発の予定だったライオンの歯磨きのCM出演はシリーズ化されて3年間も続き、小林麻美さんは、一躍、スターダムに駆け上っています。

ライオンの歯磨きCMより。
小林麻美は病弱で高校を1年休学し文化学院に転校していた
ただ、小林麻美さんは、中学3年生から高校1年生にかけて、心臓病、神経性胃潰瘍、骨髄炎から急性肝炎と、6回もの入退院を繰り返し、高校を1年休学していたそうで、
翌1971年春には、文化学院に転校して、高校1年生をやり直していたといいます。
(文化学院は、男女共学で制服もなく、大学のように自分の好きな科目を取って勉強できるなど、自由な校風の学校だったそうです)
小林麻美は18歳の時に「初恋のメロディー」でアイドル歌手デビュー
それでも、1971年10月、17歳の時には、「美人はいかが?」の端役でテレビドラマデビューし、翌年の1972年8月5日、18歳の時には、「初恋のメロディー」でアイドル歌手デビューも果たすと、たちまち、45万枚を売り上げる大ヒットを記録したのですが・・・
実は、「初恋のメロディ」は、東洋紡とのタイアップで、東洋紡が毛糸購入者へのプレゼント品として30万枚も買い取っていたそうで(つまり、実際に売れたのは15万枚)、
(それでもヒットはヒットですが)

「初恋のメロディ」
1972年12月20日にリリースした、2枚目のシングル「落葉のメロディー」は、売上は10万枚、

「落葉のメロディー」
1973年4月20日にリリースした、3枚目のシングル「恋のレッスン」は、売上8万枚と、徐々に下降していったそうです。

「恋のレッスン」
小林麻美はアイドルとしての適性に欠けると判断され歌手活動はフェードアウトしていた
そんな中、実は、小林麻美さんは、もともと、歌うことに積極的ではなく、デビュー後の(3ヶ月で38ヶ所を回るという)過酷な全国キャンペーンは心身ともに堪(こた)えていたそうで、この時期、体調面の配慮もあり、事務所を移籍したそうですが、
当時のアイドル界で主流だった”明るい笑顔”を振りまくスタイルも、小林麻美さんには馴染めず、猫背でどこか気だるそうに歌う独特のスタイルは、当時は、”暗い”とネガティブに捉えられたそうで、
結果として、アイドル歌手としての適性に欠けると判断され、歌手活動は、事務所の方針によりシングルを3枚リリースしたのみで、フェードアウトしたのだそうです。
小林麻美は18歳の時にテレビドラマ「光る海」で人気を博し女優として出演依頼が殺到していた
とはいえ、女優としては、1972年、18歳の時には、テレビドラマ「光る海」(1972年10月放送)で、茶目っ気たっぷりの女子高校生役を演じると、お茶の間の人気を博し、
NHK、民放各局、映画会社から出演依頼が殺到したといいます。

当時の小林麻美さん。
小林麻美は19歳の時に持病の神経性胃潰瘍が悪化し実質的に引退していた
ただ、1973年春には持病の神経性胃潰瘍が悪化したそうで、多忙な芸能界の生活に限界を感じ、同年初夏には実家に引きこもる静養生活に入ったといいます(実質的に引退)。
また、この突然の休業に、世間では「苦労知らずのわがまま」と批判されるほか、「死亡説」が流れるほどの騒動となったそうで、
小林麻美さんは、マスコミから逃れるように、同年6月から7月にかけての2週間、アメリカへ渡ったのだそうです。
小林麻美は19歳の時、渡米中に橋本淳との不倫が報じられていた
すると、今度は、事務所社長で親交の深かった、14歳上の作詞家・橋本淳さん(妻子持ち)との密会(不倫)が報じられています。
(小林麻美さんは、橋本淳さんとは、それ以前にも、深夜のドライブ中に事故を起こしたことが報じられていました)
ちなみに、小林麻美さんは、その4年後、雑誌「週刊明星」の取材に対し、
たとえ相手に奥さんや子どもがいても、好きになれば私はあきらめない。結婚できなくてもいいの。淡々といつまでも愛しつづけるだけで。私が恋をしたのは10代の1年間だけだった
と、語っています。
小林麻美は19~20歳頃には秘書を目指して勉強を始めるも身が入らず再び渡米していた
その後、小林麻美さんは、アメリカから帰国すると、中学時代に憧れていた秘書を目指し、タイプ、英文通訳、英会話などを習い始めたそうですが、華やかな芸能界が忘れられず、何をしても、なかなか身が入らなかったそうで、
1973年11月には、目的が見出せないまま、再びアメリカへ渡り、ロサンゼルスで友人夫婦の家に身を寄せ、居候生活を送っていたそうですが、
そこで思いがけず同年代の友人がたくさんできたことで、アメリカでの自由な暮らしを心から楽しむようになると、そのお陰で、日本で抱えていた暗い気持ちもすっかり晴れたそうで、
そんな現地の生活がすっかり気に入り、
このままロスの学校で勉強したい
と、日本の両親に電話で伝えたそうですが、猛烈に反対され、
同年(1973年)12月末に帰国したのだそうです。
ちなみに、小林麻美さんは、この頃のことを、「AERA DIGITAL」での林真理子さんとの対談で、
私、けっこう生意気だったんですよ、きっと。あと、いろんな意味でちょっと病んでたのかもしれない(笑)。でも、ロサンゼルスは私にとって特別な街で、あそこで自分が再生したという感じです。
16歳ぐらいでモデルになって、20歳で一度仕事をやめてロサンゼルスに行ったんですけど、そのたった4年ぐらいのあいだが激動の人生で、濃密な10代の4年間だったなと思います。
と、語っています。
「【画像】小林麻美の若い頃(芸能界復帰)から現在までのCMやヒット曲は?」に続く
![]()




