「凄い」タグの記事一覧(2 / 49Page)

吉田義男は阪神では新人で唯一鴨池キャンプのメンバーに選ばれていた!

小柄な体を活かしたスピードあるプレーを目指し、時間を見つけては、フェンスを相手に捕球から送球へのフォーム作りに励んでいたという、吉田義男(よしだ よしお)さんは、捕球した際の右手をグラブに入れるタイミングや、捕球の際の体の位置なども意識して・・・

吉田義男は阪神入団直後のキャンプでコーチに守備を絶賛されていた!

青木一三スカウトの2つの殺し文句が決め手となり、契約金50万円で、阪神(大阪)タイガースに入団した、吉田義男(よしだ よしお)さんは、入団後、最初の甲子園の一次キャンプでは、コーチとして参加していた、ノックの名手であり名指導者として名高かっ・・・

吉田義男は中学の時に天知俊一から遊撃手の守備を褒められていた!

野球の強豪校である旧制京都市立第二商業学校(京二商)に進学し、野球部に入部するも、まだ下級生でベンチ入り出来ない補欠だった、吉田義男(よしだ よしお)さんは、チームが甲子園出場を果たした際には、米を調達し、宿舎に運ぶ仕事も担っていたそうです・・・

吉田義男は中学時代は補欠で米を調達するのが仕事だった!

小学生の頃から野球に夢中になると、中学進学後は野球部に入部したという、吉田義男(よしだ よしお)さんですが、補欠だった吉田さんは、米を調達し、宿舎に運ぶことが重要な仕事だったといいます。

吉田義男の幼少期は戦後で食糧難だった!

幼少期は胃腸が弱かったながら、小学校に入った頃くらいから元気になり、すばしっこく、運動会で活躍するようになったという、吉田義男(よしだ よしお)さんですが、8歳の時、太平洋戦争が始まると、京都は空襲に遭わずに済んだものの、終戦後は、食糧難で・・・

広岡達朗が西武監督時代4年で優勝3回&日本一2回も突然辞任した理由とは?

1982年、西武ライオンズを初のリーグ優勝&日本一に導くと、翌年の1983年には、宿敵・巨人を倒し、見事、2年連続日本一に輝いた、広岡達朗(ひろおか たつろう)さんは、1984年には、主力の田淵幸一選手の体調悪化や、山崎裕之選手の打撃の低迷・・・

広岡達朗はヤクルト監督留任交渉では主導権を握っていた!

ヤクルト監督時代、日本一になった時点で、監督を辞任しようと決めていたという、広岡達朗(ひろおか たつろう)さんは、球団側から引き留められると、留任交渉の席では、終始、主導権を握り、「勝つための野球」に取り組む姿勢を見せるよう球団側に迫ったそ・・・

広岡達朗は監督時代ヤクルトを初のリーグ優勝&日本一に導いていた!

1976年途中にヤクルトの監督代理となり、1977年には正式にヤクルトの監督に就任すると、これまでのファミリー的だった雰囲気を一掃して、厳しい管理体制を敷き、休日返上で反復練習をさせるなど、180度真逆の方針を打ち出し、結果、ヤクルトを史上・・・

広岡達朗は正力松太郎に引退を止められていた!

1964年8月6日、国鉄スワローズ(現・ヤクルト)戦、0対2とリードされた7回、1アウト三塁という場面で、広岡さんに打席が回ってきた際、三塁ランナーの長嶋茂雄さんがホームスチールを敢行したことに対し(結果は失敗)、川上哲治監督の指示だと思っ・・・

広岡達朗は長嶋茂雄のホームスチールに激怒し試合途中で帰宅していた!

川上哲治さんとは現役時代から仲が悪かったという、広岡達朗(ひろおか たつろう)さんは、川上さんが巨人の監督になった後も、川上監督への不信感から、激怒し、なんと、試合途中で帰宅したことがあったといいます。

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