15歳で家出すると、北海道中のゲイバーを転々とし、その後、上京するも、またしても、名古屋、松山、福岡、青森、そしてまた札幌と、全国を転々とし、ようやく、19歳の時、大阪に落ち着いたという、カルーセル麻紀(カルーセル まき)さんは、4年間で16回も転居し、その間、数十人もの男性と同棲したそうですが、当時、ゲイボーイは女装していなかったにもかかわらず、カルーセルさんは見た目も女性以上に女性らしくすることにこだわったそうで、もっと女性らしい体になりたいと、18歳の時から、自分で女性ホルモンを打ち始めたといいます。

ゲイボーイ時代のカルーセル麻紀

「カルーセル麻紀が若い頃は銀座のゲイバー「青江」で売れっ子だった!」からの続き

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カルーセル麻紀は若い頃から女性ホルモンを打っていた

15歳の時に家出して以来、全国のゲイバーを転々とし、ようやく、19歳の時に大阪に落ち着き、キャバレーのような大型ゲイバー「カルーゼル」で働き始めたというカルーセルさんですが、

当時、ゲイボーイと呼ばれていた人たちは女装をしていなかったそうですが、カルーセルさんは見た目も女性以上に女性らしくすることにこだわったそうで、

フランスの女優、ブリジット・バルドーさんを真似て、髪を金髪に染め、自分で女性ホルモンを打ち、胸の膨らみを出してしなやかな身体を手に入れると、

その美貌を生かしたセクシーなダンスと男口調を交えた絶妙のトーク術でお客さんを魅了し、「ブロンドヘアの面白い子」と評判になったそうです。

ちなみに、カルーセルさんは、自分で女性ホルモンを打っていたことについて、

胸がもっと欲しかったし、女性的な丸みを帯びた体になりたかったから18歳の時にショーパブの先輩から聞いたの。当時は薬局に100円で『デポ女性』という商品が平然と売られていて、自分でお尻に打ったもんよ。

週に1回、多いときは2、3回打ってたわ

すると一ヶ月もするとオッパイが徐々に膨らんで女らしい体つきになるの。ヒゲも生えなくなるし。でも、いいことばかりじゃない。副作用が相当きついんです。

薬の力で本来のホルモンバランスを壊して無理矢理女になるわけだから、そりゃそうよ

(女性ホルモンの副作用は)強烈な頭痛よ。解熱鎮痛剤を飲めば治るので、毎日のように痛くなったらすぐ鎮痛剤を飲む、という感じでした。

と、語っています。

カルーセル麻紀は「愛してヨコハマ」で歌手デビューするほか深夜番組「11PM」などテレビ業界にも進出していた

そんなカルーセルさんは、やがては、市川猿之助(後の二代目市川猿翁)さん、藤山寛美さん、勝新太郎さんら芸能関係者からも贔屓(ひいき)にされるようになり、

市川猿之助(後の二代目市川猿翁)さんの勧めで、大阪OSミュージックホールでトップレンスのダンサーとして初舞台を踏むと、一流のダンサーしか踊ることが許されない東京の日劇ミュージックホールにも出演。

その後、1968年10月には、「カルーゼル」に勤務しながら、「愛してヨコハマ」で歌手デビューも果たすと、同時期、深夜番組「11PM」にも出演し、これをきっかけに、テレビ業界にも進出し、いくつものレギュラー番組を抱える売れっ子になったのでした。

カルーセル麻紀の「愛してヨコハマ」

ただ、当時(カルーセルさんがテレビに出演し始めた1970~1980年頃)、ゲイの人は、完全に、見世物、化け物扱いで、一般の人が、自分たちと違う人間をバカにして笑いものにする、クイズや演出ばかりだったことから、

カルーセルさんは、あまりの低俗さや醜悪さに耐えきれず、本番中にスタジオから飛び出したことが何回もあったそうで、

オカマって言われて本番中に帰ったり、大阪のテレビ局の社長にオカマは下ろせって言われたり。でも、バカにされても負けなかったね。テレビなんか仕事と思ってなかったし、私はステージで踊れればいいと思ってたから

と、語っています。

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カルーセル麻紀は芝居の魅力にも取り憑かれていた

また、カルーセルさんは、1969年、27歳の時、関口宏さんらの演劇グループ「いもの群」に出演したそうですが、自分の演技でお客さんが泣いたり笑ったりするのを見て感動したそうで、

このことがきっかけで、お芝居の魅力に取り憑かれ、以降、アングラ劇場や前衛的な芝居小屋などにも出演するようになったそうです。

(渋谷のジァン・ジァンで公演した「ゲバラ一九七一 東京」は特に思い出深い作品だそうです)

「カルーセル麻紀のデビューからの出演ドラマ映画CM写真集を画像で!」に続く

ゲイボーイ時代のカルーセル麻紀
「カルーゼル」で働いていた頃のカルーセル麻紀さん。

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