1979年頃から本格的に作曲家・編曲家として活動すると、以降、沢田研二さん、近藤真彦さん、シブがき隊、一世風靡セピア、おニャン子クラブなどを手掛けるほか、1987年から1993年までは、工藤静香さんの全シングルと全アルバムの作曲と編曲を担当し、工藤静香さんの成功にも大きく寄与した、後藤次利(ごとう つぐとし)さん。
今回は、そんな後藤次利さんの、若い頃(作曲・編曲をメインに活動していた時代)から現在までの、代表曲(提供曲)や経歴を時系列でご紹介します。

「【画像】後藤次利は若い頃ギターからベースに転向!サディスティックミカバンドも!」からの続き
後藤次利は27歳の時に作曲、アレンジ、プロデュース活動を本格化させていた
後藤次利さんは、スタジオミュージシャンとして、歌謡曲のバックバンドとして参加しているうち、レコードメーカーの人と顔見知りになり、やがて、その人たちから、「アレンジもやってみないか?」と誘われるようになったそうで、
1979年頃から、本格的に、作曲、アレンジ、プロデュース活動をスタートさせています。
後藤次利は28歳の時に沢田研二の「TOKIO」で「第22回日本レコード大賞・編曲賞」を受賞
すると、1980年、28歳の時には、編曲を手掛けた沢田研二さんの「TOKIO」が大ヒットを記録。
後藤次利さんは、この年の「第22回日本レコード大賞・編曲賞」を受賞しています。

「TOKIO」
後藤次利が28歳~34歳の時には作曲家・編曲家として、おニャン子クラブ、吉川晃司、近藤真彦、シブがき隊、一世風靡セピアなどの楽曲を手掛けていた
これをきっかけに、さらに、作曲家、編曲家としての活動が活発になった後藤次利さんは、以降、吉川晃司さん、近藤真彦さん、シブがき隊、一世風靡セピアなど、幅広く楽曲を提供するほか、
1986年には、おニャン子クラブの楽曲を一手に引き受けています。
(後藤次利さんは、おニャン子クラブとの関連ユニットの、「うしろゆびさされ組」「うしろ髪ひかれ隊」なども多数手がけています)
後藤次利は35歳~41歳の時に工藤静香の全シングルと全アルバムの楽曲を担当し「MUGO・ん…色っぽい」「めちゃくちゃに泣いてしまいたい」「慟哭」などをヒットさせていた
また、後藤次利さんは、1987年には、工藤静香さんのデビュー曲「禁断のテレパシー」を担当し、

「禁断のテレパシー」
以降、1993年まで、工藤静香さんの全シングルと全アルバムの作曲・編曲を担当すると、
- 1988年「MUGO・ん・・・色っぽい」
- 1988年「恋一夜」
- 1989年「嵐の素顔」
- 1992年「めちゃくちゃに泣いてしまいたい」
- 1993年「慟哭」
など大ヒットを連発しているのですが、

「MUGO・ん・・・色っぽい」
後藤次利さんは、工藤静香さんのように、一人のアーティストをこれほど長く手掛けたことについて、
彼女の場合、シングルが年間4枚のペースで5年間で20曲作りました。ディレクション・プロデュースするのは、キャニオンレコードの渡辺有三さんで、彼(渡辺氏)が最初に『今回は、こうしたい』というコンセプトを立ててくるんです。
それ(コンセプト)をもとに、毎回、ボクが作っていたので、マンネリとかは気にならなかったですね。まあこれは一般論ですが…アーティストが変わっても、20曲も作れば、中には“色こい”作品もあれば、“色うすい”作品もできてきますよね。(笑)
でも逆に、一人のアーティストの良いポイント、悪いポイントまで分かってしまうので、それが良い方向へ働けば“色こく”て良い作品が出来るし…
それは常に、ボクらにつきまとう問題ですよね。同じ(イメージの)ものが続けば、良い意味で“個性”と言われるし、悪い意味では“マンネリ”“ワンパターン”と言われる。
また、その度ごとに、別の人(作家)が作ったみたいにころころ変われば、カラーが無いとか、無節操と言われる。その辺を了解した上で、バランス良くやることですよ。(音楽業界の)作家は、プロ野球の様に、複数年契約で何曲という事ではないですからね(笑)
と、語っています。
後藤次利は40歳の時にとんねるずに提供した「ガラガラヘビがやってくる」がミリオンセラー
そんな後藤次利さんは、1991年には、とんねるずに作曲・編曲を提供した「情けねえ」が「日本歌謡大賞」の大賞を受賞すると、
続く1992年には、またしても、とんねるずに提供した「ガラガラヘビがやってくる」がミリオンセラーとなる大ヒットとなったのでした。

「ガラガラヘビがやってくる」
後藤次利が40代~50代の時は「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」「NNNきょうの出来事」などのテーマ音楽を手掛けていた
また、後藤次利さんは、1986年~1992年には、「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」の主題曲、1994年~2002年には、「NNNきょうの出来事」のテーマ音楽など、テレビ番組のBGMや、テーマ音楽なども多数手がけています。
後藤次利は46歳~49歳までユニット「野猿」の全シングル、アルバム、ツアーなど全般的に手掛けていた
そして、1998年~2001年(46歳~49歳)の時には、バラエティ番組から生まれたユニット「野猿」の全シングル、アルバム、ツアーなど、サウンドプロデュース全般を手がけています。

野猿のラストシングル「Fish Fight!」
後藤次利は51歳の時にソロアルバム「do not disturb」をリリース
また、後藤次利さんは、2000年には、バンド「サディスティックス」を復活させるほか、高中正義さんのライブに参加するなど、ベーシストとしての活動を再始動すると、
2003年、51歳の時には、18年ぶりとなるソロアルバム「do not disturb」もリリースしています。

「do not disturb」
後藤次利は51歳~54歳の時にユニット「gym」「Non Chords」「WAIP」を結成し精力的に活動
その後も、後藤次利さんは、
- 2003年には、ドラマーの山木秀夫さんとのインストゥルメンタルユニット「gym」
- 2004年には、藤井尚之さん、斎藤ノブさんとのインストゥルメンタルグループ「Non Chords」
- 2006年には、klammyさんとのユニット「WAIP」
など、他のミュージシャンとユニットを結成し、精力的に活動しています。
後藤次利の現在は?
そんな後藤次利さんは、近年は、「TSM東京スクールオブミュージック&ダンス専門学校」や「OSM 大阪スクールオブミュージック専門学校」で講師も務めているのですが、
石橋貴明さん、平山晃哉さん、神波憲人さんによる3人組ユニット「B Pressure」(2019年11月デビュー)のサウンドプロデューサーを務めるほか、その他、歌手への作曲、編曲等の楽曲提供も続けており、幅広い活動を続けています。
後藤次利の代表曲(提供曲)
それでは、最後に、後藤次利さんの代表曲(提供曲)をご紹介しましょう。
- 1979年「TOKIO」(沢田研二さん)
- 1982年「トラ!トラ!トラ!」(シブがき隊)
- 1985年「スシ食いねェ!」(シブがき隊)

「スシ食いねェ!」 - 1984年「前略、道の上より」(一世風靡セピア)
- 1985年「セーラー服を脱がさないで」(おニャン子クラブ)

「セーラー服を脱がさないで」 - 1985年「およしになってねTEACHER」(おニャン子クラブ)
- 1986年「じゃあね」(おニャン子クラブ)
- 1988年「MUGO・ん・・・色っぽい」(工藤静香さん)
- 1988年「恋一夜」(工藤静香さん)
- 1989年「嵐の素顔」(工藤静香さん)
- 1991年「情けねえ」(とんねるず)
- 1992年「ガラガラヘビがやってくる」(とんねるず)
- 1992年「めちゃくちゃに泣いてしまいたい」(工藤静香さん)
- 1993年「慟哭」(工藤静香さん)
ほか、多数あり、
1980年代から1990年代の歌謡曲の隆盛に、後藤次利さんが大きく貢献していたことがよくわかります。
「後藤次利の前妻は玉井タエ!木之内みどりとの不倫で離婚?堀ちえみとも?」に続く
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ピックを使わずに指で直接弦をはじく演奏法「チョッパー奏法」を編み出すなど、日本を代表するベーシストとして活躍するほか、作曲家・編曲家としても数多くのヒットを飛ばし、日本の歌謡界を支え続けてきた、後藤次利(ごとう つぐとし …









