高校在学中の1955年頃から、進駐軍のキャンプ廻りなどで音楽活動を始められると、1958年には、「ロカビリー3人男」として、日本にロカビリーブームを巻き起こし、1960年には、雪村いづみさんとのデュエット曲「恋の片道切符」で紅白にも初出場を果たされた、ミッキー・カーチスさん。今回は、そんなミッキーさんの、生い立ち、ロカビリー歌手として人気を博すまでの道のり、ディスコグラフィーについて調べてみました。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

ミッキーさんは、1938年7月23日生まれ、
東京都東京市のご出身、

身長167センチ、

血液型はO型、

学歴は、
和光学園小学校
⇒私立和光中学校
⇒私立和光高校
⇒成城大学文芸学部文芸学科映画科中退

趣味は、
宇宙考古学、ピラミッドパワー研究、超能力、彫金、切手収集、

特技は、
語学(英・仏・独・伊・タイ語)、モータースポーツ(四輪・二輪)、ローラースケート、射撃、

また、本名は「マイケル・ブライアン・カーチス(Michael Brian Curtis)」で、帰化後の戸籍名は「加千須 ブライアン(かちす ブライアン)」ですが、

作詞家としては「川路美樹(かわじ みき)」、レーサーとしては「ブライアン・カーチス」、落語家としては「ミッキー亭カーチス」、華道家としては「加千須 岩水(かちす がんすい)」を名乗られています。

ちなみに、ミッキーさんのご両親は、ともにイギリス人と日本人のハーフで、

父方の祖母は、日本におけるイギリス刺繍の第一人者、三浦レオニーさん、

父方の祖父は、鉄道省観光局による観光通訳案内業試験の第1回合格者で、サマセット・モーム、ノエル・カワード、オランダのベアトリックス王女、ベルギー国王などの通訳を務めた、三浦昇三さんです。

生い立ち

ミッキーさんは、イギリス人と日本人のハーフだった、お父さんのバーナード三浦さんと、同じくイギリス人と日本人のハーフだった、お母さんの百合子(リリー)・ブライアンさんの間に、長男として誕生すると、生後まもなく、兵庫県神戸市に住んでいた、父方の祖母、三浦レオニーさんに預けられます。

そして、その後、再び、家族の元で暮らすようになると、1942年(ミッキーさん4歳)、一家で上海に渡り、共同租界で暮らすのですが、戦時中、お父さんが失踪し、お母さんはイギリス国籍の男性と再婚。

終戦後の1945年には、母、姉、義父とともに帰国し、東京荻窪の母方の親戚宅に身を寄せると、翌年の1946年、東京千歳烏山(世田谷)に転居され、ようやくここで落ち着かれたのでした。

(※共同租界とは、20世紀の近代中国に設けられた行政自治権や治外法権をもつ外国人居留地で、列強の半植民地支配の拠点となっていました。)

いじめで国民学校を不登校も、和光学園編入でのびのび

こうして、ミッキーさんは、国民学校に通い始めるのですが・・・

ミッキーさんは、名前が英語だったことやハーフであることを理由に国民学校でいじめられてしまいます。

そして、やがて不登校となり、小学校5年生までは、自宅で家庭教師に勉強を教えてもらったそうですが、

(ミッキーさんは、日本語の名前と日本人に憧れて「五十嵐 信次郎(いがらし しんじろう)」という名前を自分で作るほどだったそうです)

1950年、私立の和光学園小学校の5年生に編入されると、生活が一変。自由な校風の小学校に、ミッキーさんは、初めて、

学校っていうのは楽しいところだな

と、思われたそうで、その後も、少中高一貫の和光中学・高校で伸び伸びと過ごされたのでした。

「ロカビリー3人男」として人気~「恋の片道切符」で紅白出場も

やがて、音楽に目覚めたミッキーさんは、和光高等学校在学中の1955年、「日本ジャズ学校」かまやつひろしさんの実父、ティーブ釜萢さんが校長を務められていました)に通い始めると、

そのかたわら、立教大学の「ウエスタン・ランブラーズ」などのカントリー&ウエスタン・バンドで歌い始められるほか、日本の占領にあたったアメリカ軍をはじめ連合国軍兵士のキャンプ廻りや、朝鮮戦争に出征する国連軍兵士の慰問、都内のジャズ喫茶で演奏されるなど、地道に音楽活動を重ねられ、

1957年3月には、ロカビリーバンド「クレイジー・ウエスト」を結成。

ロカビリー歌手として頭角を表した翌年の1958年には、2月8日~14日に開催された「第1回日劇ウェスタンカーニバル」(日本劇場で開催されていた音楽フェスティバル)に出演し、平尾昌晃さん、山下敬二郎さんと共に「ロカビリー3人男」として人気を博したのでした。


「第1回日劇ウェスタンカーニバル」より。中央がミッキーさん。

また、ほぼ同時期、「月影のなぎさ(Moonlight Swim)」(アンソニー・パーキンスのヒット曲のカバー)と「小熊のテディ(Teddy Bear)」(エルヴィス・プレスリーのカバー)をカップリングした、SP盤でレコード・デビューも果たされるのですが、

同年5月には、早々にロカビリー・ブームに見切りをつけ、鈴木邦彦(ピアノ)、リッキー中山(ドラムス)等と共にジャズに傾倒したバンド「アイヴィ・ファイブ」を結成。

1960年には、雪村いづみさんとデュエットした「恋の片道切符」で、「第11回NHK紅白歌合戦」に出場を果たされるなど、あれよあれよと人気歌手の座に上り詰めたのでした。

(ちなみに、この「第11回NHK紅白歌合戦」はラジオ中継の音声が現存し、2004年にも、ミッキーさんの歌声がNHKのラジオ番組で紹介されています。)

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ディスコグラフィー

それでは、ここで、ミッキーさんのそのほかのディスコグラフィーもご紹介しましょう。

1958年「君は我がさだめ」(「You Are My Destiny」のカバー)
     「バルコニーに座って」(「Sittin’ In The Balcony」のカバー)
     「愛しておくれ」(「Send Me Some Loving」のカバー)
     「のっぽのサリー」(「Long Tall Sally」のカバー)
     「小熊のテデー」(「Teddy Bear」のカバー)
     「浮気なパトリシア」(「Patricia」のカバー)
     「ファースト ロマンス」(「First Romance」のカバー)

1960年「おおキャロル」(「Oh! Carol」のカバー)
     「恋の片道切符」

1961年「G.I.ブルース」(「G.I. Blues」のカバー)
     「イッツ ナウ オア ネヴァー」(「It’s Now Or Never」のカバー)
     「カレンダーガール」(「Calendar Girl」のカバー)

と、海外のカバー曲を中心にリリースされています。

「ミッキーカーチス&サムライが昔ヨーロッパで人気?岡本喜八監督の常連俳優も!」に続く

https://www.youtube.com/watch?v=LtVHRGhdaq0

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