1966年、「劇団若草」に入団すると、翌年の1967年には、「これが青春だ」でテレビドラマデビューし、以降、数多くのテレビドラマや映画に出演されている、音無美紀子(おとなし みきこ)さん。今回は、そんな音無さんの生い立ちからデビューまでをご紹介します。
年齢は?出身は?身長は?本名は?妹は?
音無さんは、1949年12月26日生まれ、
東京都大田区久が原のご出身、
身長164センチ、
体重48キロ、
スリーサイズは、83.5-63.5-91、
靴のサイズは24センチ、
血液型はB型、
学歴は、
大田区立松仙小学校
⇒頌栄女子学院中学校
⇒頌栄女子学院高校卒業
趣味は、
モダンダンス、ギター、料理、日舞、茶道、華道、
ちなみに、「音無美紀子」は本名(結婚後は村井美紀子)で、音無家のルーツは和歌山・熊野の神官なのだそうです。
また、元女優の音無真喜子さんは妹さんです。
幼少期は裕福な家庭で何不自由なく育つ
音無さんは、東京都大田区で服飾関係の会社を経営する両親のもと、6人姉妹の4番目として誕生すると、住み込みの番頭さんやお針子さんたちと一緒に大きな家に住み、裕福な家庭で何不自由なく育ったそうですが、
姉妹の人数が多すぎて近所の人になかなか名前を覚えてもらえなかったことから、小学校時代は、運動会で頑張って1番を取ったり、合唱コンクールで指揮者をするなど、自然と目立ちたがり屋になったそうです。
中学時代は宝塚歌劇団を目指すも・・・
そんな音無さんは、小学校5年生の時、家の近所の商店街で映画のロケが行われているのを見て、女優になる決意をすると、
(吉永小百合さんと浜田光夫さんが出演していた日活映画だと言われていますが、二人が来ていたかは不明)
中学生の時には、「宝塚歌劇団」のお芝居を観て感動し、中学卒業後は高校へ進学せずに「宝塚歌劇団」に進みたいと、「宝塚歌劇団」を受験するための学校に通い始めたそうですが、
先生に歌が下手だから受験を辞めたほうがいいと言われたうえ、お父さんには猛反対され、結局、「宝塚歌劇団」は断念し、高校に進学されたのだそうです。
地井武男は兄のような存在だった
ところで、音無さんが小学校5年生の時、お母さんの知り合いだった、後の巨人のエースとなる城之内邦雄投手(「エースのジョー」と呼ばれたそうです)が巨人に入団し、
「巨人の多摩川グラウンドに近い下宿を探してほしい」と頼まれたお母さんが、音無家の近所に部屋を見つけてあげると、そこで、城之内さんの従兄弟である地井武男さん(当時18歳)も同居を始められたそうで、
それからというもの、時々、地井さんと城之内さんは、一緒に音無さんの家にご飯を食べに来るようになったのだそうです。
すると、地井さんは、音無さんを妹のようにかわいがってくれ、音無さんもまた、地井さんを「お兄ちゃん」と呼ぶなど、二人はすぐに仲良くなったそうで、
地井さんの田舎に連れて行ってもらった時には、地井さんの家はトイレが外で、音無さんが夜にトイレに行くのを怖がっていると、地井さんは、「ついてってあげるから」と、懐中電灯を持って一緒についてきてくれるなど、とてもやさしい「お兄ちゃん」だったそうです。
地井武男の紹介で「劇団若草」に入団
その後、音無さんが16歳の時、地井さんが映画デビューされ、音無さんは、地井さんが俳優だったことを知らず、突然のことで驚いたそうですが、
実は、音無さんは、「宝塚歌劇団」断念後も密かに女優になりたいという夢を持ち続けていたそうで、
実は、私も女優になりたい
と、地井さんに打ち明けたところ、
地井さんは、「劇団若草」の先生を紹介してくれたそうで、音無さんは「劇団若草」に入団されたのでした。
「これが青春だ」でデビュー
すると、翌年の1967年には、「これが青春だ」最終回のゲスト出演でテレビドラマデビューし、続く「でっかい青春」ではバレー部員役、1968年、「七人の刑事」ではゲスト出演と脇役をこなし、
「でっかい青春」より。右端が音無さん。(中央は広瀬みささん)
1971年、テレビドラマ「お登勢」の主演に抜擢されると、テレビドラマは高視聴率を記録し、音無さんも一躍脚光を浴びたのでした。
また、1968年には、「あゝひめゆりの塔」で映画デビューも果たすと、以降、数多くのテレビドラマや映画に出演され、
「ありがとう」(1970)
「二人だけの道」(1972)
「女たち」(1978)
「愛」(1979)
「弓代と規子」(1990)
「おんな太閤記」(1981)
「二人だけの道」より。石坂浩二さんと音無さん。
など、石井ふく子さんプロデュース作品の常連俳優としてもお馴染みとなられたのでした。
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