1950年代は、主人公のいけ好かない恋敵や軽薄な男の役、1960年代は、日活映画で石原裕次郎さんや小林旭さんら銀幕のスターの敵役、1973年には、映画「仁義なき戦い」で、小狡(ずる)くセコい山守親分役を演じて映画ファンを熱狂させると、
1987年には、一転、「金子信雄の楽しい夕食」で新境地を開拓し、アシスタントの東ちづるさんとの絡みがウケ、人気を博した、金子信雄(かねこ のぶお)さん。
今回は、そんな金子信雄さんの、若い頃の活躍や経歴をデビューから時系列でまとめてみました。
「金子信雄の生い立ちは?幼少期から結核!病弱で戦争でも召集解除されていた!」からの続き
金子信雄が20代の時は「浦島太郎の後裔」で映画デビューするほか「文学座」では二枚目路線で活躍していた
23歳の時に成瀬巳喜男監督作品「浦島太郎の後裔」で映画デビュー
金子信雄さんは、終戦の年の1945年、22歳の時、「文学座」の劇団員となると、1946年、23歳の時には、成瀬巳喜男監督作品「浦島太郎の後裔」で映画デビューしたそうですが、その後は、痩せすぎていたため、いい役に恵まれなかったそうです。
20代前半の頃は「文学座」の中堅として二枚目路線で活躍していた
ただ、先輩の美男子俳優・森雅之さんが、戦争中に「文学座」をやめたことから、森雅之さんによく似ていた金子信雄さんは、徐々に、森雅之さんの後釜候補と見られるようになっていったそうで、
杉村春子さん、中村伸郎さん、三津田健さんらと共に、「文学座」の中堅として、二枚目路線で活躍し始めていきます。
29歳の時に「文学座」を退団し「青年俳優クラブ」の結成に参加するも1年で脱退
しかし、1952年、29歳の時、演劇観の違いから「文学座」を退団すると、「青年俳優クラブ」(後の「劇団青俳」)の結成に参加しているのですが、「青年俳優クラブ」も1年で脱退しています。
1954年には「青年俳優クラブ(後に劇団青俳に改名)」の設立に参加し、1966年には「新演劇人クラブ・マールイ」を妻・丹阿弥谷津子さんと設立した、金子信雄(かねこ のぶお)さん。 今回は、そんな金子信雄さんが「文学座」を …
金子信雄が30代~40代の時は憎まれ役(脇役)を多く演じていた
以降、金子信雄さんは、新劇俳優として、ラジオドラマや日活映画を中心に活動すると、1950年代は、主人公のいけ好かない恋敵や軽薄な男の役、1960年代は、日活映画で石原裕次郎さんや小林旭さんら銀幕のスターの敵役を多く演じています。
日活映画「赤いハンカチ」より。
また、金子信雄さんは、1966年、43歳の時には、妻で女優の丹阿弥谷津子さんと共に劇団新演劇人「クラブ・マールイ」を結成しています。
金子信雄が50代の時には「仁義なき戦い」の山守親分役でブレイク
56歳の時には深作欣二監督作品「仁義なき戦い」の山守親分役でブレイク
そんな金子信雄さんは、1973年、50歳の時には、戦後の広島を舞台にヤクザ社会の激しい抗争を描いた、深作欣二監督作品「仁義なき戦い」で、小心でずる賢く、仁義のかけらもない、ヤクザの組長・山守義雄役を演じると、
この作品は、
- 1973年「仁義なき戦い 広島死闘篇」
- 1973年「仁義なき戦い 代理戦争」
- 1974年「仁義なき戦い 頂上作戦」
- 1974年「仁義なき戦い 完結篇」
と、シリーズ化される大ヒットとなり、金子信雄さんもたちまちブレイクを果たします。
「仁義なき戦い」より。
山守親分役のモデルとなった実際の組長・山村辰雄に面と向かって絶賛されていた
ちなみに、金子信雄さんは、この役のモデルとなった、実際の組長・山村辰雄さんに、新幹線の中でばったり出会い、その際、
お宅、自分をモデルになった人物に、上手くなりきって演じてくれたじゃないですか。本当に、もう一人の自分が居る様に思いましたよ。
と、言われたそうで、
それほど、金子信雄さんの演技は、真に迫ったものだったようです。
深作欣二監督は金子信雄の山守親分役に反対していた
実は、当初、「仁義なき戦い」の深作欣二監督は、山守義雄役にずっと三國連太郎さんを推しており、試写で見た、金子信雄さんのデフォルメしすぎた、アホっぽい親分役に、ずっと不安を抱いていたそうで、
あんなアホな親分いませんよ。こんな親分に子分がつくはずないじゃないか
と、東映の岡田茂社長に言ったといいます。
しかし、岡田茂社長は、
あれは絶対におもしろい
と、金子信雄さんをプッシュしたそうで、
「仁義なき戦い」より。
それでも、深作欣二監督が三國連太郎さんに固執すると、岡田茂社長は、
お前降りろ、もういいよ
と、まで言ったといいます。
金子信雄はクランクイン直前に病で倒れるも山守親分役をやらせてくれるよう必死に訴えていた
一方、金子信雄さんも、この役に対しては並々ならぬ思い入れがあったそうで、
実は、金子信雄さんは、クランクイン直前に病で倒れていたのですが、代役の候補に、かつての飲み仲間で、劇団「青排」で活動を共にした西村晃さんが挙がっているのを耳にして、病床から這い出し、
この役を降ろされたら、役者として生きていけない。死んでもいいからやらせてくれ!
と、必死に訴えていたといいます。
「仁義なき戦い」より。田中邦衛さん(左)と金子信雄さん(右)。
結果、岡田茂社長の金子信雄さんに賭ける思いと、金子信雄さんのこの映画に賭ける思いが見事に花開き、この映画は大ヒットしているのですが、
後に、
金子の怪演なくして本作は語れない
とまで言われるほど、金子信雄さんは、この映画での演技を高く評価されたのでした。
金子信雄が60代の時は料理番組「金子信雄の楽しい夕食」で東ちづるとの掛け合いがウケ長寿番組となっていた
64歳の時に料理番組「金子信雄の楽しい夕食」で自ら考案した料理を披露し東ちづるとの掛け合いがウケていた
そんな金子信雄さんは、その後も、任侠映画を中心に、映画やテレビドラマで活躍しているのですが、1987年、64歳の時には、一転、料理番組「金子信雄の楽しい夕食」で、自ら考案した料理を披露。
(金子信雄さんは、俳優業以外に、料理研究をライフワークとしており、食にまつわるエッセイを多数執筆しています)
「金子信雄の楽しい夕食」より。金子信雄さんと東ちづるさん。
この番組は、「料理のことを知らない、新米アシスタントが、金子さんから料理を習いながら、徐々に料理が上手になっていく」という設定で放送されると、
金子信雄さんと、初代アシスタントの東ちづるさんとの掛け合いがウケ、1995年まで続く長寿番組となっています。
(東ちづるさんは1992年に降板)
東ちづるとの掛け合いの秘密とは?
ところで、東ちづるさんによると、収録の初日は、スタッフ全員が、金子信雄さんのご機嫌うかがいに必死だったそうですが、
金子信雄さんは、何が気に入らなかったのか、突然、
オレを気安く使うんじゃねぇ!
と、怒鳴ると、お玉を放り投げ、そのまま帰ってしまったといいます。
(そのせいで、1日10本収録する予定が、すべて流れてしまったそうです)
その後、スタッフが、なんとか、金子信雄さんの機嫌を取り、後日撮り直しとなったそうですが、
その際、東ちづるさんが、勇気をふりしぼって、
先生、この間どうしてお帰りになったんですか
と、尋ねると、
なんと、金子信雄さんは、
ああやっておくと、効くんだよ!
と、にやりと笑ったそうで、
それ以来、東ちづるさんは度胸がつき、金子信雄さんのわがままや毒舌にひるむことなく番組を進行することができたのだそうです。
そして、いかつい金子信雄さんを、ニコニコしながら、手の平で転がす東ちづるさんは、やがて、”お嫁さんにしたい女性有名人ナンバーワン”に輝いたのでした。
(東ちづるさんは、いつしか、スタッフから”猛獣使い”と呼ばれるようになったそうです)
金子信雄の死因(71歳)は細菌性敗血症
しかし、そんな金子信雄さんも、1994年11月に体調を崩すと、1995年1月11日から出演予定だった舞台を降板し、1995年1月20日午前11時43分、細菌性敗血症により、71歳で他界されたのでした。
「金子信雄の妻・丹阿弥谷津子との馴れ初めは?息子(次男)は金子こうじろう!長男は?」に続く
デビュー当時はイケメン路線で活躍するも、次第に敵役や悪役に転向し、1973年には、深作欣二監督作品「仁義なき戦い」で狡(ずる)くてセコい山守親分役でブレイクを果たした、金子信雄(かねこ のぶお)さん。 そんな金子信雄さん …