1947年の山岳アクション映画「銀嶺の果て」が、スリルとアクションにあふれた娯楽作品として高い評価を得、1949年「ジャコ万と鉄」、1950年「暁の脱走」と、立て続けにダイナミックな作品を連発された、映画監督の谷口千吉(たにぐち せんきち)さん。しかし、1950年代後半に女性問題で干されると、1960年に復帰されるも、その後はパッとせず、1975年「アサンテ サーナ」を最後に、以降、表立った活動がないまま、2007年、95歳で他界されました。
プロフィール!
谷口さんは、1912年2月19日生まれ、
東京都のご出身、
学歴は、
早稲田大学文学部英文科中退、
趣味は登山、
だったそうです。
「銀嶺の果て」が高い評価
谷口さんは、早稲田大学在学中、千田是也さん、東野英治郎さん、小沢栄太郎さんとともに演劇活動を行い、左翼色の強い新劇の演出家を目指されるのですが、
1930年に弾圧を受けて大学を中退すると、1933年には、PCL(東宝の前身)に助監督として入社し、主に山本嘉次郎監督の助監督を務められます。
そして、長い下積みを経て、ついに1946年、「東宝ショウボート」で映画デビュー。
翌年の1947年には、発表した山岳アクション、「銀嶺の果て」(黒澤明さんと共同脚本)が、自身の登山経験を活かした北アルプスでのロケで高い評価を受けると、
「銀嶺の果て」おり。若山セツ子さんと三船敏郎さん。
(ちなみに、谷口さんのスカウトにより、この作品で俳優デビューした、三船敏郎さんが、一躍スターの仲間入りを果されています。)
1949年「ジャコ万と鉄」
1950年「暁の脱走」
と、立て続けに、ダイナミックでロマンチシズムな作品を連発し、当時、急激に頭角を現した黒澤明監督のライバルとしても期待されるようになったのでした。
「暁の脱走」より。李香蘭(山口淑子)さんと池部良さん。
女性問題で干される
その後も、谷口さんは、
1952年「激流」
1953年「赤線基地」
「赤線基地」より。三國連太郎さんと根岸明美さん。
1954年「潮騒」
1956年「裸足の青春」
1957年「嵐の中の男」
「嵐の中の男」より。小堀明男さんと三船敏郎さん。
などの作品を発表するのですが、
1950年代後半、女性問題が原因で、東宝から3年近くも干されてしまいます。
そして、1960年になり、ようやく映画界に復帰されるのですが、B級アクション映画や喜劇映画のみの仕事で、監督作品数は激減。
1971年には、日本万国博公式記録映画の総監督を務められるも、その後の活動は続かず、1975年、東アフリカのタンザニアを舞台に日本青年海外協力隊の活躍を描いた、「アサンテ サーナ」を最後に芸能界から遠ざかり、2007年10月、「誤嚥性肺炎」のため、95歳で他界されたのでした。
「アサンテ サーナ」より。
元妻は水木洋子
そんな谷口さんの、気になるプライベートですが、
谷口さんは、男らしい性格(?)だったことから大変モテたそうで、3回の結婚と2回の離婚を経験されています。
まず、最初の奥さんは、戦時中からNHKラジオドラマで人気を博し、戦後も「浮雲」「また逢う日まで」「ひめゆりの塔」など、映画のシナリオを担当して人気を博した脚本家の水木洋子さんで、
「浮雲」より。森雅之さんと高峰秀子さん。
お二人は、1938年12月に結婚されるのですが、翌年の1939年には早くも離婚。
離婚原因は、谷口さんの女性問題だったと言われています。
(後に水木さんは、谷口さんとの馴初めを、「変なラブレター作戦にひっかかってね」と明かされています。)
在りし日の水木洋子さん
八千草薫と不倫の末の結婚
その後、谷口さんは、1949年に、「銀嶺の果て」の撮影現場で知り合った、当時20歳の清純派女優、若山セツ子さんと電撃結婚されるのですが、
「銀嶺の果て」より。春坊に扮する若山セツ子さん。
1956年には、自身の監督作品「乱菊物語」の撮影で知り合った、女優の八千草薫さんと不倫関係におちいり、同年、若山さんと離婚。
(にもかかわらず、谷口さんは、離婚理由について、「ごく普通の気立てのいいお嬢さんということで結婚したんですが・・・私のやり方が間違っていたのかもしれません」と、意味不明なことをおっしゃっています。)
そして、翌年の1957年、周囲の猛反対のなか、八千草さんと再々婚。
「乱菊物語」より。陽炎に扮する八千草薫さん。
結婚披露宴では、
三度目の正直ということがありますから、今度は長く続くでしょう。
と、のんきなことをおっしゃっています。
結婚披露宴での谷口さんと八千草さん。
(一方、谷口さんに捨てられた若山さんは精神不安定となり、55歳の若さで精神病院で首を吊って自殺されています。)
おしどり夫婦だった?子どもは?
さて、谷口さんは、この不倫スキャンダルで3年近く仕事を干されるのですが、それとは裏腹に、結婚生活は、おしどり夫婦と呼ばれるほど順調で、
谷口さんの学生時代からの趣味である登山を、たびたび、お二人で楽しんでおられたほか、谷口さんが、65歳で自動車免許を取得し、85歳まで八千草さんの送り迎えをされるほど尽くすと、
八千草さんも、谷口さんが90歳頃から車椅子が必要な状態となると、甲斐甲斐しく世話されるなど、お互い大切にされていたようです。
ちなみに、谷口さんが若い頃にマラリアにかかったことが原因で、お二人の間にはお子さんができなかったのですが、かえって、お二人の絆が強いものとなったのかもしれませんね。
谷口さんのご冥福をお祈り致します。