中学卒業後、バレリーナを目指して上京した前田美波里(まえだ びばり)さんですが、バレエ教室でスカウトされ、芸能事務所に所属すると、翌年の1964年には、ミュージカル「ノー・ストリングス」で舞台デビュー。そして、1966年には、資生堂のイメージモデルに起用され、たちまち人気を博します。
年齢は?出身は?身長は?本名は?
前田さんは、1948年8月8日生まれ、
神奈川県鎌倉市のご出身、
身長169センチ、
靴のサイズは25.5センチ、
学歴は、
聖ミカエル学園小学校
⇒鎌倉市立御成中学校
⇒文化学院英語科卒業
趣味は、
温泉、クラシックバレエ、
特技は、
タップダンス、
ちなみに、前田美波里は本名で、
お父さんの祖母「ビバリー」からその名を受け継ぎ、
「美しい波の里」である生まれ故郷・神奈川県鎌倉市にちなんで、
漢字があてられたそうです。
また、遠縁には、
冨士眞奈美さん(冨士さんの母方の叔母が、前田さんの母のいとこと結婚)
岸惠子さん(前田さんの母のいとこが、岸さんの母方のいとこの妻の弟)
が、いらっしゃいます。
幼少期~父親はアメリカ海軍の軍人
前田さんのお父さんはアメリカ海軍の軍人で、
お母さんは前田さんを身ごもると、
帰国するお父さんと共にアメリカに渡るつもりだったのですが、
両親(前田さんの祖父母)は孫が離れるのを嫌がって猛反対。
それで、お母さんは、お父さんと別れて日本に残ったのですが、
その一連のいざこざで、両親(前田さんの祖父母)に勘当されてしまい、
鎌倉の実家を出て、逗子に住まいを借り、そこで前田さんは誕生します。
ただ、その住まいは、新聞社勤務の方が所有する、
立派な西洋館の敷地内にある離れで、
その家の3人の息子さんが、広い庭で遊んでくれたり、
家の人が買い物に一緒に連れていってくれるなど、
幼い前田さんはとてもかわいがられて育ったのでした。
2~3歳の頃の前田さん(左)とお母さん(右)
「聖ミカエル学園」でクラシックバレエ
ところが、いざ、孫が生まれたことでかわいくなったのか、
両親(前田さんの祖父母)から実家に戻ってくるよう言われ、
前田さんが4歳の時には、祖父母の家のすぐ近くに転居。
そして、お母さんが毎日仕事が忙しかったため、
前田さんは祖父母の家で過ごすことが多くなり、
礼儀作法など厳しくしつけられます。
一方、小学校は、父親が外国人であることで、
引け目を感じさせたくないとのおじいさんの配慮から、
学費の面では苦労しながらも、
三井財閥の令嬢の為に作られたお嬢様学校で、
外国人も多い「聖ミカエル学園」に入学させてもらったそうで、
小学校4年生の時には、
クラシックバレエのレッスンに通う友達を見て、
クラシックバレエに憧れるようになると、
(お母さんには言い出せずにいたそうですが)
何度も見学に通ううちに、
先生が声をかけてくれてレッスンを始めることになり、
先生が分け隔てなく接してくれたことから、
前田さんはたちまちバレエにのめり込み、
バレリーナを夢見るようになったのでした。
小学校4年生の頃の前田さん
若い頃は~資生堂のCMでブレイク
その後、前田さんは、バレリーナになるためには、
鎌倉にいるより東京で勉強した方がいいのではないかと考え、
中学卒業後はお母さんとともに上京。
すると、通い始めたバレエ教室で芸能関係者の目に留まって、
スカウトされ、芸能事務所に所属。
1963年(15歳)には、前田さんの知らないうちに、
当時のマネジャーが応募した芸術座のミュージカル
「ノー・ストリング」(東宝主宰)のオーディションに合格して、
「東宝現代劇」に8期生として入団し、
翌年の1964年には、
ミュージカル「ノー・ストリングス」で初舞台。
舞台「ノー・ストリングス」より。
そして、1966年(18歳)には、資生堂のサマー化粧品
「ビューティケイク」のイメージモデルに起用され、
「太陽に愛されよう」のキャッチコピーとともにCM出演すると、
健康的な小麦色の肌をあらわにした前田さんは、
これまで色白が美人の条件だった社会通念を覆し、
たちまちブレイクされたのでした。
このポスター、現在では超お宝で、なんと28万円!
ちなみに、前田さんの夢は、いつの間にか、
バレリーナからミュージカル女優へと変わっていたのですが、
それほど、あれよあれよの出来事だったそうで、
資生堂のモデルになったことについても、
高校2年(3年生?)の時に、
資生堂のCM出演が決まりましたが、突然決まり、あっという間に、
自分が世間に露出してしまったという感じでした。いつの間にかハワイ行きの飛行機に乗っていて、
撮影して帰ってきたら、もうあちこちに自分のポスターが貼られ、
このモデルは誰だと大騒ぎになっていたんです。
と、おっしゃっていました。
「前田美波里の息子は真木蔵人!孫は?元旦那はマイク眞木!離婚理由は?」に続く