1923年に「松竹蒲田撮影所」に入所されると、1927年には時代劇「懺悔の刃」で監督デビューを果たし、1928~1932年まではハイペースで映画を製作し、「小市民映画」と呼ばれるジャンルの第一人者として高い評価を得た、小津安二郎(おづ やすじろう)さん。しかし、その後、戦争が始まると応召され、過酷な日々を送られます。
「小津安二郎監督の若い頃は小市民映画の第一人者だった!」からの続き
戦争体験
小津さんは、1933年には、「東京の女」「非常線の女」「出来ごころ」を製作されるのですが、同時期、国内ではトーキー映画(音を記録し映像と同調させて画面に映写する発声映画)が増えてきていたことから、
(当初、トーキー化に慎重な姿勢を見せていた)小津さんも、1936年には、初のトーキー映画「鏡獅子」(外国向けに歌舞伎の演目を映像化したドキュメンタリー映画)と「一人息子」を製作。
しかし、1937年8月、「東宝」で映画監督をしていた親友の山中貞雄さんに応召がかかると、9月には小津さんも応召され、9月24日には、大阪から出向し、中国戦線に向かわれます。
そこでは、第二中隊に属する第三小隊で班長を務めた小津さんですが、小津さんの部隊は中国軍を追撃するも、南京総攻撃(12月10日~13日)には間に合わず、南京陥落後には、南京を越えて奥地へと進軍。
そんな中、1938年1月12日には、南京郊外にある包容という場所で山中さんと再会し、お互い、久しぶりに友との再会を喜ばれたのですが・・・
それも束の間、同年9月、山中さんは、「急性腸炎」を発症して、開封という場所の野戦病院で他界されます。
その後、同年6月、小津さんは、伍長から軍曹に昇進して「漢口作戦」で各地を転戦されると、1939年6月26日、ようやく、「九江」で帰還命令を受け、7月13日、神戸に上陸し除隊となったのでした。
「戸田家の兄妹」が初のヒット
そして、1939年、小津さんは、復帰第1作目として、「彼氏南京に行く」というシナリオを執筆されたのですが、「映画法」の検閲を通らず、映画化を断念。
(この年、内務省の指示で、映画を製作する前に検閲するシステムが導入され、映画が国家に完全に統制される「映画法」が成立。この検閲に映画界は騒然となったそうです。)
ただ、それでも、小津さんはめげずに、1941年、「戸田家の兄妹」を製作し、初の大ヒットを記録すると、
(これまで、小津さんの作品は、1932年から1934年まで3年連続「キネマ旬報ベストテン」第1位となるなど、批評家からの評判は高かったものの、興行的には成功していませんでした。)
続く、1942年には、「父ありき」(製作中に戦争が始まったため、公開は1947年)を制作されるなど、戦後の小津作品の骨格を完成させていきます。
「父ありき」より。笠智衆さん。
(この作品には、後に小津作品に度々出演することになる、笠智衆さんが初主演を務められています。)
シンガポールでアメリカ映画を多数鑑賞
その後、日米戦が始まると、小津さんは、「松竹」が託されたビルマ作戦の映画「ビルマ作戦 遥かなり父母の国」の製作にあたるのですが、完成しないまま、1943年6月、「軍報道部映画班」に徴集されると、
監督の秋山耕作さん、シナリオ作家の斎藤良輔さんと共に、軍用機でシンガポールへ向かい、インドの独立活動家・チャンドラ・ボースの活躍を描いた「オン・トゥー・デリー」(仮題)の製作に取り掛かるのですが、これも完成とはなりませんでした。
そして、小津さんは、シンガポールで終戦を迎えられると、「映写機の検査」の名目で、大量のアメリカ映画を見ることができたことから、「嵐が丘」「北西への道」「レベッカ」「わが谷は緑なりき」「ファンタジア」「風と共に去りぬ」「市民ケーン」などの映画を鑑賞。
終戦後は、抑留生活を送られると、1946年2月11日、ようやく、日本へ帰国されたのでした。
戦後は母親と同居
こうして、復員された小津さんは、東京の実家に戻られたのですが、お母さんの姿はありませんでした。
実は、お母さんは、戦争中、周囲の人が疎開を勧めるも、当初は、「安二郎はこの家に戻ってきますから」と、頑として聞き入れなかったそうですが、
1945年3月10日の空襲(東京大空襲)の後は、さすがにその凄まじさに疎開を決意し、千葉県の野田市に住む娘(小津さんの妹)・登久さんの嫁ぎ先・山下家の世話になっていたのです。
そこで、小津さんは、野田市にお母さんを迎えに行くと、そこに部屋を借り、お母さんと暮らし始めます。
唯一の暴力シーンが描かれた「風の中の牝雞」
そして、しばらくは映画製作から離れていたかったものの、会社から度重なる催促があったことから、1947年、重い腰を上げ、戦後第1作目「長屋紳士録」を発表されると、
その後、奈良を舞台にした、「月は上りぬ」の製作に取り掛かったものの、起用を考えていた高峰秀子さんをキャスティングできず、企画自体が頓挫。
このため、代わりの企画を用意することになり、脚本家の斎藤良輔さんが考えていたアイディアの中から、1948年、敗戦後の生活をリアルに描いた「風の中の牝雞」を製作されたのでした。
ちなみに、この作品では、夫が妻を階段から突き飛ばすななど、激しい暴力シーンがあるのですが、これは、小津作品では唯一といっていい暴力シーンで、
当時、戦争で捕虜になっていた兵士は徐々に復員するも、まだシベリアでは何年も抑留されたままの人々も多く、また、当時の日本には、健康保険の制度がなかったことから、日本で待つ家族は大変な苦労をしていたそうで、そんな世相を背景に過酷な現実を直視した作品となったのでした。
(そのためか、評判はあまり良くなかったそうです)
「小津安二郎監督と原節子の関係は?東京物語ほか作品は?」に続く
「風の中の牝雞」より。妻が階段を転がり落ちるシーン