薩摩藩の武士で、「篤姫」の世話係だったとも言われている、池端喜八郎を父方の先祖に持つ、加山雄三(かやま ゆうぞう)さん。今回は、そんな加山さんのお父さんをご紹介します。
「加山雄三の先祖は薩摩藩武士で篤姫の世話係だった!」からの続き
列車事故で祖父の跡取り話が立ち消え
加山さんのおじいさん・池端清武さんは、1874年(明治7年)に誕生すると、19歳になった時、陸軍に入隊して、首都の警護にあたり、その後、陸軍士官学校に入ったそうですが、結婚(いつ頃かは不明)されると、1902年(明治42年)には、息子の清亮さんが誕生。
この清亮さんというのが、加山さんのお父さんで、後の俳優・上原謙さんなのですが、清亮さんが成長し、軍人の子どもが多く在籍していた東京の成城中学校に通っていた頃、お父さんの清武さんが病死し、さらには、池端家(本家)の当主の池端源蔵さん(清亮さんの伯父)も他界してしまいます。
すると、伯父さんには男の子がいなかったため、伯父さんの一人娘だった上野菊枝さんが、清亮さんを本家の跡取りにするために養子に迎えたいと、鹿児島から清亮さんが住む東京まで訪ねて来られると、清亮さんを養子にすることで話がまとまったのだそうです。
(菊枝さんの夫は当時の鹿児島市長の上野篤さん)
しかし、菊枝さん夫婦は、鹿児島に帰る途中、山陽本線特急列車脱線事故に遭い、ご主人の篤さんは死亡、菊枝さんは、両足を切断するという重傷を負ってしまい、そのため、清亮さんの跡取りの話は立ち消えとなったのだそうです。
父親が芸能界入り
ところで、同時期、清亮さんは、ボーイスカウトの音楽隊で指揮者をされていたそうで、成城学校卒業後は、立教大学に入学し、大学内のオーケストラでトランペット奏者として活躍されていたのですが、
そんな中、1933年、複数の友人たちが、「松竹蒲田」の新人募集に、清亮さんの写真を内緒で応募したそうで、その美男子ぶりから、清亮さんは見事合格。
清亮さんは、大学卒業後の1935年、好奇心から「松竹」へ入られたそうです。
父親・上原謙の若い頃は桑野通子と「アイアイ・コンビ」で人気
そんな清亮さんは、同年、「若旦那・春爛漫」で映画デビューされると、2作目「彼と彼女と少年達」でいきなり主演に抜擢。
「彼と彼女と少年達」より。上原謙さんと桑野通子さん。
すると、この「彼と彼女と少年達」で共演された桑野通子さんと「アイアイ・コンビ」と呼ばれて人気を博し、続く「恋愛豪華版」では、生き生きとした若者を演じ、それまでの映画俳優には見られなかった新鮮な魅力でたちまち「松竹」の期待の星に。
また、翌年の1936年にも、映画「有りがたうさん」で主演を務められます。
「有りがたうさん」より。上原謙さんと桑野通子さん。
(清亮さんがいつ頃から「上原謙」と名乗られていたのかは不明ですが、映画「有りがたうさん」では、すでに「上原謙」名義だったようです)
母親は女優の小桜葉子
こうして、上原謙さんは、「松竹」の猛プッシュのもと、華々しく、芸能生活をスタートすると、その後、女優の小桜葉子(加山さんのお母さん)さんと撮影所で知り合われ、交際に発展。
1935年には、徴兵されて台湾に配属されるのですが、1936年、原因不明の発熱で除隊となって帰国すると、同年、小桜さんと結婚。翌年の1937年、加山さんが誕生したのでした。
結婚式での上原謙さんと小桜葉子さん。
父親・上原謙は二枚目俳優として活躍
その後、上原さんは、恋愛映画でヒロインの相手役に次々と抜擢されると、1938年には、映画「愛染かつら」が空前の大ヒットを記録。
さらに、同年には、続編「愛染かつら 完結篇」に出演されると、上原さんの人気は不動のものになるのですが、
上原さんはこれを良しとせず、演技の幅を広げるため、1940年には、国策映画「西住戦車長伝」にも出演。
1943年には、映画「花咲く港」で、東北弁丸出しの軽妙なペテン師をコミカルに演じ、新境地を開拓されたのでした。
(「花咲く港」は、木下惠介監督のデビュー作だったそうです)
「加山雄三の母親は女優の小桜葉子!高祖父は500円札の岩倉具視!」に続く
「愛染かつら」より。上原謙さんと田中絹代さん。