沢田研二さんを加え、「ファニーズ」として活動を開始すると、やがて、ジャズ喫茶「ナンバ一番」でダントツの人気となり、1966年5月10日に開催された、「全関西エレキバンドコンテスト」でも優勝した、岸部一徳(きしべ いっとく)さん。この後、内田裕也さんとの出会いによって、東京進出のチャンスをつかみます。
「岸部一徳の若い頃は沢田研二らとファニーズで活動していた!」からの続き
大阪・西成区の「明月荘」で5人の共同生活を始める
1966年5月10日に開催された「全関西エレキバンドコンテスト」で優勝した「ファニーズ」は、3日後の5月13日には、岸部さんの提案により、本格的に音楽活動をするため、大阪市西成区岸里のアパート「明月荘」で合宿生活を始めることになったそうで、
「明月荘」の3部屋を1部屋あたり3000~4000円で借りると、岸部さんと瞳みのるさん、沢田研二さんと森本太郎さんが2人1組になって、部屋を割り当て、加橋さんだけ階段下の小部屋に一人で住まれたそうです。
(実際には、岸部さんと沢田さんは割り当てられた部屋に定住するも、瞳さんと森本さんは、決められた部屋からしょっちゅう、どこかへ移動していたそうです。)
ちなみに、瞳さんによると、この「明月荘」は、昼間でさえ暗く、湿気の多い薄汚れた木造2階建て、三畳一間で、共同トイレだったうえ、場所も決して品の良い所ではなく、共同生活はなかなか大変だったようです。
ファンの聖地として親しまれた「明月荘」ですが、2019年4月、ついに、取り壊されてしまいました。
「ザ・スパイダース」の田辺昭知に東京進出を進められるも・・・
そんな「ファニーズ」は、関西バンドの憧れである「ナンバ一番」でダントツの人気だったことから、やがて、東京進出を考え始めるようになったそうで、合宿を始めて1ヶ月が過ぎた頃、沢田さんと森本さんが、東京・銀座にあるライブハウス「ACB」に遊びに行ったそうですが、
そこでは、「ザ・スパイダース」の田邊昭知さんと出会ったそうで、田邊さんは、すでに「ファニーズ」を知っており、東京へ来るなら、「スパイダクション」(現在の「田辺エージェンシー」で、田邊さんら「ザ・スパイダース」のメンバーによって設立)に入るように勧めてくれたそうで、
実は、「ファニーズ」全員が「ザ・スパイダース」のファンクラブに入っているほどのファンだったことから、大阪に帰ってきた沢田さんと森本さんが、興奮しながらこの話をメンバーに伝えると、メンバーは大喜び。
(岸部さんたちは、「ザ・スパイダース」の大阪でのライブを観に行ったことがあったそうですが、その際、「ザ・スパイダース」の井上堯之さんから激励され、感激したことがあったそうです)
ただ、その後、田邊さんからは音沙汰がなく、たまらず、沢田さんと森本さんが再び上京し、直接、田邊さんに面会したそうですが、田邊さんの反応は冷たく、その後、話は進展することなく、うやむやになってしまったのでした。
内田裕也に声をかけられる
そんな中、岸部さんたちは(森本さん以外)、1966年6月、「武道館」で行われた「ビートルズ」の日本公演を観に行き、ますます、東京に進出したいと思うようになったそうで、ますます、演奏の練習を重ねると、
6月には「ナンバ一番」の人気投票で1位を獲得し、8月には「ナンバ一番」で、3日間、「ファニーズショウ」を開催するなど、その人気を確固たるものに。
すると、「ナンバ一番」で共演した「ブルージーンズ」の内田裕也さんから、
東京に来る気があるか
と、リーダーの瞳さんに声をかけられたのです。
「渡辺プロダクション」のオーディションに合格
ただ、またしても、その後は具体的な話にならなかったため、業を煮やした瞳さんが、それから3ヶ月後の同年9月12日、宣伝材料を携え、単身上京。
9月14日には、内田さんから宿舎ホテルに呼ばれて面会すると、内田さんのバンド「ブルージーンズ」が所属していた「渡辺プロダクション」を紹介してもらう約束をとりつけたそうで、
(以前、「スパイダース」の田邊さんからは、その後、連絡がなかったため、今回は、即座に約束をお願いをされたのだそうです)
10月9日、「ナンバ一番」で、「渡辺プロダクション」のオーディションを受けると、21日、見事合格の電話をもらったのでした。
ちなみに、「渡辺プロダクション」から合格の連絡を受けると、岸部さんたちはそれぞれ、家族に報告されたそうですが、森本さんだけは、もともと、お母さんが反対していたため、東京行きを悩まれてたそうです。
ただ、そんな森本さんも、岸部さんのお父さんなどに説得され、最終的には、東京行きを決意されたのだそうです。
「岸部一徳は昔タイガースでシーサイド・バウンドが大ヒット!」に続く
在りし日の「ナンバ一番」