大ブレイクするも、異常なファンの追跡や、事務所に操り人形のように働かされる日々のストレスから、メンバー間で争いが絶えなくなっていった、岸部一徳(きしべ いっとく)さんら「ザ・タイガース」。そんな中、ついに、加橋かつみさんが失踪。そして、瞳みのるさんも失踪を企てます。
「岸部一徳はタイガースではメンバー間の争いの緩衝材だった!」からの続き
加橋かつみが「渡辺プロダクション」に脱退申し入れ
当時、流行していたグループ・サウンズの中でも頂点を極めた「ザ・タイガース」でしたが、内情はというと、メンバー間で争いが絶えない毎日。
そんな中、メンバー間でも、特に、強い音楽的志向を持つがゆえに「ザ・タイガース」の在り方に疑問を感じるようになっていた加橋かつみさんが、脱退したい旨を「渡辺プロダクション」に申し入れます。
すると、「渡辺プロダクション」は、人気が頂点に達していたこの頃、沢田さんと人気を二分する加橋さんを失うことができなかったことから、
加橋さんの思い描く、「誕生、平和、友情、恋、祭、運命、兵士、母、死、英雄、人類の滅亡、再出発」など、理想の世界を反映したコンセプト・アルバム「ヒューマン・ルネッサンス」を制作したのですが・・・
人気絶頂期に加橋かつみが失踪
それでも、加橋さんの不満は払拭されることはなかったようで、加橋さんは、アルバム完成後、再び、「渡辺プロダクション」に脱退を申し入れ。
しかし、「渡辺プロダクション」が了承しなかったことから、ついに、1969年3月5日、加橋さんは、渋谷・斉藤楽器でのレッスン中にスタジオを離れたきり戻らなくなってしまったのでした(失踪)。
ちなみに、事務所の副社長である渡邊美佐さんは、沢田研二さん以外のメンバーには興味がなかったようで、加橋さんが、イタリアンレストラン「キャンティ」で、偶然、渡邊さんに会い、挨拶した際には、「あなた誰?」と言い放ったと言われており、
加橋さんは、自分たちの「ザ・タイガース」が渡邊さんの沢田さんへの愛情だけで操られるのが、我慢ならなかったと言われています。
加橋かつみの失踪は「渡辺プロダクション」が仕組んだ「脱退劇」だった
この出来事を受け、マスコミは、一旦は、(加橋さんの自発的な)失踪と報道したのですが、ほどなくして、実は、「渡辺プロダクション」主導の脱退劇だったと、改めて報道。
実は、「渡辺プロダクション」は、当時、グループ・サウンズの象徴的な存在であり、人気と実力を兼ね備えた加橋さんを脱退させることで、「ザ・タイガース」の人気が下降することを恐れ、
加橋さんが自発的に失踪したことにして、加橋さんとお母さんをホテルに拘束し、外部と連絡を取ることのできない状態にしていたのでした。
(この報道を受け、「渡辺プロダクション」は謝罪会見を開いています)
岸部一徳の必死の説得で瞳みのるは失踪を思いとどまる
ただ、この、「渡辺プロダクション」主導の加橋かつみさん失踪&脱退劇は、加橋さん以外のメンバーやスタッフには、一切知らされていなかったことから、メンバーは大きなショックを受けたそうで、
特に、加橋さんとは京都時代からの友人で、苦楽をともにし、同じような疑問や思想を抱いていた、瞳みのるさんのショックは大きく、加橋さんと「渡辺プロダクション」に不信感を抱くようになったそうで、1969年5月には、瞳さんもヨーロッパへの失踪を決意。
ただ、事前に発覚し、岸部さんの必死の説得で(「ザ・タイガース」の解散をほのめかされたとも)、失踪を思いとどまられたそうですが・・・
もはや、元の「ザ・タイガース」に戻ることはできるはずもなく、「解散」は秒読みとなったのでした。
「岸部一徳は沢田研二を誘い萩原健一らと「PYG」を結成していた!」に続く