数々のトラブルに見舞われるも、本格的なロックを目指し、新バンド「PYG」として活動をスタートした、岸部一徳(きしべ いっとく)さんですが、メンバーだった沢田研二さんや萩原健一さんの単独ブレイクで、次第に「PYG」の存在が希薄になっていき・・・

「岸部一徳は「PYG」で石や空き缶を投げつけられていた!」からの続き

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「PYG」として活動

「渡辺プロダクション」に所属したことで、沢田研二さんと萩原健一さんのツインヴォーカルとして売り出されると、ライブ会場では、沢田さんと萩原さんのファンがそれぞれ嫌がらせの応酬をし合ったほか、硬派なロックファンからは商業主義と猛烈な批判を浴びるなど、波乱の幕開けとなった、岸部さんたち「PYG」でしたが、

そんな手探り状態の中でも、1971年4月10日にファースト・シングル「花・太陽・雨」、8月10日にファースト・アルバム「PYG!」を発売すると、アルバム「PYG!」は、オリコンアルバムチャートで10位を記録するヒットします。


「花・太陽・雨」


PYG!

「PYG」が解散(自然消滅)

ただ、11月1日にリリースされた、3枚目のシングル「もどらない日々」は、萩原健一さんを前面に押し出した「萩原健一+PYG」のクレジットだったうえ、同日、沢田さんも、ソロシングル「君をのせて」をリリース。


「もどらない日々」

また、12月には、沢田さんがセカンド・アルバム「JULIE II IN LONDON」をリリースするなど、ソロとして本格的に活動をスタート。

さらに、翌年1972年、萩原さん主演のテレビドラマ「太陽にほえろ!」がヒットしたことで、萩原さんの俳優として評価が徐々に高まると、

「PYG」は、萩原さんが参加できる時は「PYG」として、参加できない時は、「沢田研二と井上堯之バンド」(または井上堯之グループ)として活動するようになっていきます。

これにより、「テンプターズ」時代からの萩原さんのファンは徐々に姿を消し始め、1972年には、客席のほとんんどが沢田さんのファンで占められるようになるのですが、

1972年3月、沢田さんが、ソロとしてのセカンドシングル「許されない愛」が大ヒットを記録し、「第14回日本レコード大賞歌唱賞」「第5回日本有線大賞優秀賞」を受賞すると、

ついに、「PYG」は、1972年11月21日、5枚目のシングル「初めての涙」を最後に、事実上の解散(自然消滅)となってしまったのでした。


「初めての涙」

「井上堯之バンド」として活動するもミュージシャンを廃業

その後、岸部さんは、沢田さんと萩原さん以外のメンバーである、井上堯之さん、大野克夫さん、原田裕臣さん(大口広司さんは脱退)とともに、「井上堯之バンド」を結成し、

沢田さんのライブでバックバンドをするほか、萩原さん主演のテレビドラマや映画のサウンドトラックを中心に活動するのですが・・・

1975年6月19日、鶴岡市民会館「沢田研二コンサート」をもって「井上堯之バンド」を脱退すると、ミュージシャンそのものも廃業されたのでした。

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「レッド・ツェッペリン」のジョン・ポール・ジョーンズが岸部一徳のベースを絶賛

ちなみに、岸部さんは、ミュージシャンをやめた理由について、

(「PYG」解散後は)次にどうするか何も決めていなかったですが、とにかく「解散しないと先に進めない」という感じで。

僕はその後、井上堯之バンドで沢田研二のバックバンドをやったりしていましたけど、そのうちに自分が音楽をどのくらい勉強してるか、才能があるのかを考え出したんです。

考えてみると勉強はしていないし、才能があるかといえば、そんなにないな、と。結婚して家庭を持つ前に音楽をやめるならやめないと、という気持ちもありました。

と、語っておられるのですが、

岸部さんは、グループサウンズ時代から、演奏力に定評があり、「PYG」も、岸部さん、大野さん、井上さんという実力派のミュージシャンがいたからこそ、ミュージシャンの間では一目置かれる存在だったほか、

(後年においても、いくつかのオリジナル曲が再評価されています)

日本公演で来日していた「レッド・ツェッペリン」のジョン・ポール・ジョーンズさんは、たまたま、テレビで演奏していた、岸部さんのプレイを見て、

初めて日本に行ったとき、「PYG」という日本のバンドをテレビで見た。そして、俺達の「Baby I Gonna Leave You」をやっていたんだ。

ボーカルは冴えない奴だったが、ベースの奴はとんでもないスゴ腕でね。 俺よりもいいんじゃないかと思ったぐらいだ。 会いたかったんだが、結局会えずじまいだった。

後にテツ(山内テツさん)に会った時に、「あれはお前か」と聞いたんだが、テツではなかったらしいよ。

と、おっしゃっており、

それほどまでに、音楽の才能に恵まれるも、音楽の才能に自信をなくしてしまったとは悲しすぎますが、もしかしたら、岸部さんは、音楽業界をとりまく商業至上主義に嫌気がさしたのかもしれません。

「岸部一徳は俳優転身後は樹木希林の事務所に所属していた!」に続く

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