お父さんの堺駿二さんが喜劇役者として大成功したことから、非常に裕福な家庭で何不自由なく育った、堺正章(さかい まさあき)さんですが、1962年、16歳の時、グループ・サウンズバンド「ザ・スパイダース」に加入すると、たちまち才能を開花します。
「堺正章の父親・堺駿二は舞台公演中に死去していた!」からの続き
幼少期は裕福で父親に溺愛されて育つ
堺さんは、喜劇役者・堺駿二さんと「元松竹少女歌劇団」の踊り子だった幹千代子さんのもと、4人兄妹の末っ子として誕生すると、6人家族のほか、お手伝いさん、庭師、運転手、お父さんの弟子と、鎌倉市にある1400坪もある敷地にある豪邸(ジャーマン・シェパードを10頭も飼っていたそうです)で、何不自由なく育ったそうで、
お父さんと過ごせるのは半年に1度、1週間のみだったそうですが、堺さんが幼稚園に行くのを嫌がると、お父さんは、連日撮影所に連れて行ってくれたほか、小学5年生の時には、堺さんがローラースケート場に行きたいとダダをこねると、庭にローラースケート場を作ってくれるなど、溺愛されて育ったそうです。
子役として活動していた
そんな堺さんは、1952年、6歳の時、「東京騎士伝」で映画デビューすると、同年、映画「母は叫び泣く」にも出演。
「東京騎士伝」より。右が堺さん(5歳)。
1954年には、映画「ハワイ珍道中」に出演するなど、子役として活動されていたのですが、それ以降は芸能活動はせず、学業に専念されます。
芸能界入りを希望するも父親の反対に遭う
ただ、中学生の時には、エルビス・プレスリーなどのアメリカン・ポップスに夢中になり、音楽の道へ進みたいと考えるようになったそうで、そのことをお父さんに伝えるも、
お父さんには、
無駄な苦労はするな
と、芸能界入りを反対されます。
それでも、堺さんは音楽への道があきらめられず、1年間頼み続けると、堺さんが16歳の時、ようやく、お父さんは、
やるからには最後までやれ
と、芸能界入りを許してくれたのだそうです。
「ザ・スパイダース」に加入
こうして、堺さんは、1962年、16歳の時、「堀プロダクション」から芸能活動を再開すると、ちょうどその頃、グループ・サウンズバンド「ザ・スパイダース」を結成し、メンバーを探していた田邊昭知さんから熱心に誘われ、「ザ・スパイダース」に加入し、ヴォーカルを担当。
(お父さんが「ザ・スパイダース」を紹介してくれたという説も)
そして、その後、1964年2月に、井上順(いのうえ じゅん)さんが加入すると、以降、井上さんとツインヴォーカルとなります。
(ちなみに、「ザ・スパイダース」全盛期のメンバーは、堺さん、井上さん、設立者・田邊さん(ドラムス)のほか、加藤充さん(ベース)、かまやつひろし(ムッシュかまやつ)さん(ギター&ボーカル)、大野克夫さん(キーボード)、井上堯之さん(リードギター)でした。)
海外アーティストの前座&バックバンドを経て「フリフリ」でレコードデビュー
その後、「ザ・スパイダース」は、かまやつひろしさんが影響を受けた「ビートルズ」など、「ブリティッシュ・ビート」と呼ばれる楽曲を演奏し、
1964年4月には、「ピーター&ゴードン」のバックバンド、
1965年1月、9月には、「ザ・ベンチャーズ」の前座、
同年6月には、「アニマルズ」の前座、
同年8月には、「ザ・サファリーズ」「ハニーカムズ」の前座、
1966年1月には、「ザ・ビーチ・ボーイズ」の前座、
と、来日した海外アーティストの前座やバックバンドとして活動。
そして、1965年5月には、ファーストシングル「フリフリ」でレコードデビューすると、
「フリフリ」
それまでの日本にはなかった、ブリティッシュ・ビートに加え、ミリタリー・ルックをいち早く取り入れるセンスの良さと、コミカルタッチな演出が高く評価され、
その後も、
「越天楽ゴーゴー/トワイライト・ゾーン」(1965年11月)
「越天楽ゴーゴー/トワイライト・ゾーン」
「ノー・ノー・ボーイ/リトル・ロビー」(1966年2月)
「ノー・ノー・ボーイ/リトル・ロビー」
「青春ア・ゴー・ゴー/クライ・アンド・クライ」(1966年3月)
「青春ア・ゴー・ゴー/クライ・アンド・クライ」
「ヘイ・ボーイ/ミシェル」(1966年4月)
「ヘイ・ボーイ/ミシェル」
「サマー・ガール/なればいい」(1966年7月)
「サマー・ガール/なればいい」
と、立て続けにシングルをリリース。
ただ、一部のコアな音楽ファンは虜(とりこ)にしたものの、当時の日本では、まだまだ、ムード歌謡曲が全盛の時代だったため、いずれもヒットとはならなかったのでした。
「堺正章は昔「スパイダース」で「夕陽が泣いている」が大ヒットしていた!」に続く
https://www.youtube.com/watch?v=KO4YbavuD8A