NHKスタッフから袋叩きに遭った後、局を出てすぐさま羽田空港に向かい、札幌行きの飛行機に乗ると、札幌では浴びるほどお酒を飲み続ける毎日を送っていた、倉本聰(くらもと そう)さんですが、そんな時、手を差しのべてくれた人たちがいました。
「倉本聰はNHKから吊し上げられ「勝海舟」を降板させられていた!」からの続き
トラックの運転手に転職しようと考えていた
自分の発言が発端とはいえ、週刊誌に「NHKへの告発」とでっちあげられ、仲間と思っていたNHKスタッフから吊し上げられ、あまりのショックに逃げるように北海道に飛んだ倉本さんは、自暴自棄になり、肝臓を壊すほど、飲んだくれていたそうですが、
東京にいる奥さんから電話がかかってきて、笑いながら、
貯金が7万円しかなくなった
と、言われたそうで、
飲み屋のツケも数十万円になっていたことから、本気でトラックの運転手になろうと、大型免許を取得しようとしていたそうです。
フジテレビの社長らから脚本のオファーを受ける
しかし、そんな時、東京から、淡島千景さんのマネージャーの垣内さんとニッポン放送時代の先輩の嶋田親一さん、プロデューサーの中村敏夫さん、フジテレビの社長(当時)が、倉本さんが滞在するホテルを探し当てて、訪ねてきて、
NHKとのトラブル、バッシングに負けてはいけない!あなたは今こそホンを書くべきだ!
と、分厚い封筒を差し出して、テレビドラマの脚本を依頼してくれたそうで、
倉本さんは、感動のあまり、不覚にも涙を流し、引き受けたのでした。
松方弘樹は一連のNHKの対応を批判し35年間干されていた
ちなみに、その後の大河ドラマ「勝海舟」はというと、倉本さんの降板について、NHKからは、出演者に対して何の連絡もなかったそうで、主演の松方弘樹さんは、このことに不信感を抱き、「勝海舟」の収録をすべて終えた直後、朝日新聞(1974年11月5日付夕刊)で、
NHKに出演する気は、もうありません
と、宣言し、その後も雑誌などでNHKの批判を繰り返されたそうで、
(それは、ほかのキャストやスタッフにくすぶるNHKへの不満を代弁されたものだったのですが)松方さんは、一人、矢面に立ち、以来、35年にわたってNHKに出演することができなくなってしまったのだそうです。(2009年大河ドラマ「天地人」で復帰)
復帰後は「前略おふくろ様」「大都会 闘いの日々」ほか次々と脚本を執筆
さておき、脚本の依頼を受けた倉本さんは、1974年、実際に起きているテレビ業界の裏側を痛烈に風刺した連続テレビドラマ「6羽のかもめ」(10月より半年間放送)で脚本家復帰すると、
(この作品では、大河ドラマ「勝海舟」を巡るNHKとのトラブルにより、メディア不信となっていたことから、「石川俊子」という名義を使われたそうです。)
その後も、
1975~1981年「うちのホンカン」
1975年「あなただけ今晩は」
1975~1976年「前略おふくろ様」
1976年「大都会 闘いの日々」
「うちのホンカン」より。八千草薫さんと大滝秀治さん。
1977年「あにき」
1978年「七人の刑事」第23話
「坂部ぎんさんを探して下さい」
「浮浪雲」
「あにき」より。高倉健さん。
1979年「年の始めの」
「たとえば、愛」
「祭が終ったとき」
1980年「さよならお竜さん」
「機の音」
「たとえば、愛」より。大原麗子さん。
と、立て続けにテレビドラマの脚本を執筆し、
特に、「うちのホンカン」「前略おふくろ様」は大ヒットを記録したのでした。
(「前略おふくろ様」は、萩原健一さんに、「何か書いてください」と頼まれたことがきっかけで、出来たそうです。)
「倉本聰は好んで札幌から過疎の富良野に移住していた!」に続く
「前略おふくろ様」の制作発表会より。萩本健一さんと梅宮辰夫さん。